【生活考】土曜版「少年Kの1960年代」ガキ大将

生活

おはようございます。本日2本目の「土曜版:少年Kの1960年代」です。

そもそも、「土日に合わせて4本の記事を書け!」なんて無茶なんだよ、コロちゃんは遅筆なんだから、そんなにかけるわけないじゃないかー! かー! かー!
( 」゚Д゚)」カーッ!

と雄たけびの最後に、悲鳴がこだましたところで「少年Kの物語」が始まりますよ。

今日は「少年kの1960年代:ガキ大将」をカキコキします。

0.「今日の記事のポイント」

by<br><span class="bold-blue">コロちゃん</span>
by
コロちゃん

今日の記事は、下記のような内容になっていますよ。どうぞ最後まで楽しみながらお読みください。

☆「少年コロちゃんとガキ大将と、ガキ大将は裏の家のケンちゃん」

☆「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3種の神器と、子どもたちは集団で遊んだ」

☆「ガキ大将がいなくなった日と、カラスが鳴くからかーえーろ」

1.「少年コロちゃんとガキ大将」

皆さん、「ガキ大将」ってご存じですか? 

そりゃ、若い方でも「ド〇えもん※」を読んでいますから、皆さんご存じですよね。そうです、その中の「ジ〇イアン」です。

(※ド〇えもん:1969年:コロコロコミック:作:藤子・F・不二雄:小学館)

また「こちら葛飾区亀有公園前派出所※」にも、主人公の「両津勘吉」の少年時代の「ガキ大将」だった頃の「悪ガキ時代」も描いていましたね。

(※こち亀:1976年:少年ジャンプ:作:秋本修:集英社)

この「主人公」の「両津勘吉」は、コミックの中で1952年生まれと書いていましたから、少年コロちゃんとほとんど同年代です。

生まれた場所と育った場所が、「両津勘吉」は東京の下町で、少年コロちゃんは田舎町という違いはあります。

だけど、子どもたちがワシャワシャとイナゴの佃煮みたいに近所に湧いていた光景は同じでしたよ。

そうなんです。少年コロちゃんと「両津勘吉の少年時代」には同じ風景があったのです。

東京の下町で「両津勘吉」が「ガキ大将」だったように、少年コロちゃんの小さな世界にも、やはり同じような「ガキ大将」がいました。

今日は、その「お話し」をしますね。

2.「ガキ大将は裏の家のケンちゃん」

コロちゃんの子ども時代には、まだ「ガキ大将」がいました。この「子どもを引き連れた一団」は、全員が「小学生」なのがルールでした。

コロちゃんが所属した集団は、10人ほどのグループで近所の「ケンちゃん」という少年に率いられていました。

この「ケンちゃん」は、ケンカが強かったのです。

青っ洟を垂らしながらのケンちゃんのケンカにはどの子どももかないませんでした。ケンちゃんは、コロちゃんちの裏にあった家の子でしたね。確かお姉さんが1人いたと覚えていますね。

当時は昭和30年代(1960年前後)、子どもの数が多くいたるところで集まって遊んでいました。

その時代には、まだ「洗濯機」や「電気釜」は家庭には入っていません。家庭のお母さんの家事・炊事は大変な作業量でした。

コロちゃんも、母親が庭先で「たらいと洗濯板」を拡げて、座りこんで込んでゴシゴシと下着などを洗っていた光景を憶えていますよ。

母親の「掃除・家事・炊事」の負担が重い時代だったのです。

そうなると、周りでチョロチョロする子どもたちは、ハッキリ言って邪魔ですよね。

「外で遊んでいらっしゃい!」と家から、子どもたちが追い出されるということになるわけです。

その子どもたちは、近くの原っぱや道路で遊ぶことになりますが、そのうちに自然に子どもどうしが集まって遊ぶようになって来ます。

「ガキ大将」とは、その中から必要に迫られて自然に生まれたと、今のコロちゃんは考えていますね。

だから、遠く離れた「東京の下町の両津勘吉」と、「東北地方の田舎町の少年コロちゃん」が同じような「ガキ大将」のグループにいたのだと思いますよ。

3.「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3種の神器」

「ガキ大将」の話しをする前に、子どもたちが集まって遊ぶ背景として、母親の「家事・炊事負担」が重い事を上記で取り上げましたが、それをちょっと詳しく見てみましょう。

1960年代初めに「家庭電気製品」の「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「家電3種の神器」として、賢伝されました。

◎「白黒テレビ」はちょうどその少し前の1953年に、シャープより発売されました。

お値段は17.5万円。当時の「公務員の初任給は高卒で5400円」だったそうですから、ざっと32ヶ月分(1年8ヶ月分)ですか。ちょっと普通の家庭では手が届かないですね。

◎「洗濯機」は、日立の洗濯機「SM-A1」が発売になったのは1952年です。

お値段は5.39万円、この年の「高卒初任給が8000円・大卒初任給が1.9万円」ですから、大卒でも月給「3ヶ月分」ですね。

「かけそば」の値段を基準に換算して見ると、この「電気洗濯機」のお値段はすくなくとも50万円以上〜95万円ほどになります。

なお、この「洗濯機」は脱水槽は無く、外側にローラー式の絞り器がついていました。

少年コロちゃんちに、洗濯機が入ったのはこの後ぐらいでしたが、ローラー式の絞り器には記憶があります。この型だったのかも知れませんね。

脱水は、この「ローラー」を人間が手回しして絞っていたのです。

しかし、コロちゃんちでは多分母親がローンで購入したのでしょうから、母親が病院勤務で得たお給料の1年分は間違いなくかかっていますね。

いやいや大変だったろうなー、そしてうれしかっただろうなー。
ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪

◎「冷蔵庫」は、昭和初期ごろから販売されてはいましたが、とても高価なもので、家庭に普及し始めるのは1960年代以降となっていますね。

1965年で5.78万円、1969年には6.32万円の販売価格が記録されています。1960年の大卒初任給が1.6万円の時代ですから、現在ではざっと50万円になるそうです。

少年コロちゃんちでは、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」の順(?)で、少年コロちゃんが小学生時代に入ってきましたから、姉さんが言っているように、ウチはそんなに「貧乏」じゃなかったのかなー。
(。・_・?)ハテ?

今となっては、何ともわかりませんね。ただ、この時代の「家電3種の神器」のお値段が今とはかけ離れて高いものだったことは間違いがありませんね。

4.「子どもたちは集団で遊んだ」

さて少年コロちゃんの話しに戻りますと、毎日学校から帰ると、子どもたちは「邪魔だから外で遊べ」と家から追い出されます。

そうして近所の空き地へ行くと「ガキ大将」のケンちゃんが、多くの子どもたちの前に立って言います。

「きょうは、かくれんぼするゾ!」というように、毎日指示をするのです。そして、周りが暗くなるころまで、みんなで「ガキ大将」の統率の下で遊ぶのですよ。

少年コロちゃんたちがよく遊んだのは、「かくれんぼ・かんけり・鬼ごっこ」でしたね。

場所は、近くにあった「日東紡績の社員寮(1軒屋群)の間の空き地」でした。

この「日東紡績」は、この社員寮のすぐお隣に広い工場を持っていて、多くの若いお姉さんが働いていましたね。

コロちゃんが、「今ここはどうなっているのかな?」と調べてみたら、会社は「日東紡」という名前でかつての「紡績会社」から「ガラス繊維のトップメーカー」に衣替えしていました。

そして、少年コロちゃんちの近くの「広い工場」の敷地は「21世紀記念公園『〇山の杜』」に変身していましたよ。

そこで、話しを「コロちゃんとガキ大将」に戻すと、60年以上前にその「日東紡績」の「社員寮(1軒屋群)」の間の空き地で、子どもたちがワラワラと走り回って遊んでいたのですよ。

少年コロちゃんたちが、「社員寮(1軒屋)」の住民から怒られたことはありませんでしたから、おそらく独身者の「社員寮」で、住人は日中はみな隣にあった工場で働いていたのでしょうね。

コロちゃんは、ここで遊んだ「缶蹴り」を特に強く思い出しますね。

鬼になった少年は、缶を踏みながら見つけた少年の名前を呼ばなければならないのですけれど、名前を呼ばれる前の少年は缶をけることが出来ます。

普通ならば、見かけた少年の名前を呼びながら缶を踏めば鬼の勝ちなのですが、いっぺんに多くの少年たちが缶をめがけて走りこんでくると、名前の呼ぶのが間に合わなくなってしまうのです。

それを繰り返された鬼にされた子どもは、いつまでも鬼にされていて、最後は泣きわめくようになるという遊びでした。

よく遊んだなー、楽しかたったけど、よく泣かされたなー。
えぇーん 。゚゚(´□`。)°゚。

少年コロちゃんは、今でいう「ヘタレな少年・の〇太くん」だったのですよ。

5.「ガキ大将がいなくなった日」

この「ガキ大将」というシステムは、この1960年代から1970年代にかけて全国的に徐々に無くなっていったようです。

日本経済が「高度成長」に進む中で、子どもたちの世界に「ガキ大将」が成立する基盤が失われていったのだろうと思いますね。

今から振り返って、少年コロちゃんが所属した「ガキ大将グループ」の特徴を考えて見ると、以下のようになります。

➀「小学生のみの自主管理組織」

親や大人は一切介入しません。すべて小学生が集まって自分たちで決めて、自分たちで運営していました。

➁「参加資格は小学生のみ」

中学校に進学の前に「ガキ大将」は次の「ガキ大将」を指名します。小学校を卒業と同時に「ガキ大将」もまた卒業するのです。

③「行動・統率はガキ大将が全て」

「ガキ大将グループ」の遊びに関しては、全てを「ガキ大将」が握ります。逆らうと「怖い目」にあいます。

いやいや、今から考えても良く出来た組織(システム)でしたよ。おそらく江戸時代の「若衆組」等の青年組織の下部に連なった系譜があったのかも知れませんね。

上記の「組織構成と組織理論」を見て行くと、「学校教育システム」と全く違っていることに気が付きます。

「学校教育システム」は、「1人のおとな(教師)」が数多くの同年代の子どもたちをまとめて「指導・教育」しますね。

1人の管理者に対して同年代の子どもたちは横1線に並んでいます。

それに対して「ガキ大将システム」では、縦のラインがあります。違った年齢層をまとめるのです。

これは容易い事ではありませんよ。だって「小学6年生」と「小学1年生」とでは、体力も出来ることも全く違っているのですからね。

「ガキ大将」を頂点として、多くの場合は年齢別に縦ラインで面倒をみて行きます。

なんと言っても「小学生の子ども」たちが同じ「子どもたちを引き連れる」という形の組織は他にはあまりありませんね。

コロちゃんは、2000年ごろに「ボーイスカウト運動」のボランティアリーダーを務めましたが、このシステムが「ガキ大将システム」によく似た「組織論」を持っていました。

「ボーイスカウト」では、大人のリーダーが、子どものスカウト隊員に直接指導はしないのです。(学校教育とはそこが違う点です)

「大人のリーダ―」は、子どものスカウトの「班長・次長(多くは年長)」のスカウトにだけ直接指導するのです。

一般の「年少スカウト」には、その後に「班長・次長スカウト」が教えると言うシステムになっていました。

この「小集団を作って指導する」というシステムは、産業界では戦後アメリカから日本に伝えられ、科学的管理法として「トヨタの改善運動」等にも繋がっていると言われていますね。

やはり同質ではない違った年齢層を統率するには、「小集団の管理法」の方が優れているということを、「ガキ大将システム」や「産業界の小集団管理」が証明しているのではないでしょうか。

その後のコロちゃんの「ガキ大将グループ」は、ケンちゃんが小学校卒業時に引退して、コロちゃんよりも一つ年下の「ター坊」が「ガキ大将」に任命されていきました。

「ヘタレな少年コロちゃん」は、1年年下の少年に飛ばされてしまって「ガキ大将」になれなかったのです。

いやいや「先代ガキ大将のケンちゃん」は子どもを見る眼がありましたね。ちょっと悔しかったですけどね。
(#`皿´)ぐぬぬ・・・

今から考えても、とても「ガキ大将」が「小学6年生の子ども」だったとは思えないと感嘆しましたよ。

6.「カラスが鳴くからかーえーろ」

今回あらためて「少年kの1960年代」をカキコキするにあたって、そんなに書くことがあるかな?と思っていました。

しかし一つ一つ書いていると、あらあら結構次々と思い出してきますね。

もちろん「思い出フィルター」がかかっていますから、現実の風景よりは大分「美しく」記憶が改ざんされて残っているのでしょう。

しかし、大きな流れには間違いがありません。ここで書いていることは、確かに今から60年以上前に少年コロちゃんの目の前で広がっていた世界なのです。

記憶には懐かしいものもあれば、悔しかった思いも残っています。しかし、そのどれもが少年コロちゃんのその後を形作った記憶なのです。

どうですか、なかなか少年コロちゃんの生活も充実していたと思いませんか。

今のコロちゃんは、「貧しい少年時代」だと思っていましたけれど、いろいろ思い出していくと、その中でも楽しい事はありましたよね。

今のコロちゃんは、もう人生で言えば「晩秋」でしょう。やがて迎える終わりの日に向かって、最後まで悔いのない人生をおくりたいものですね。

そして最後の退場のときには「カラスがなくからかーえーろー」と、笑いながら静かに消えていきたいと思っていますよ。

コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。

このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします(^_^.)

おしまい。

FreddyによるPixabayからの画像
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