【年末年始考】「少年Kの1960年代➀」テレビの普及と購入

生活

おはようございます。いよいよ今年もあとわずかになってしまいました。

今日からのコロちゃんのブログですが、「年末年始考」として、以前に1度発表した「少年Kの1960年代」シリーズを、リライトして再び発表しますね。

コロちゃんが、「可愛らしい(多分)少年時代」だった「1960年代の日本」の雰囲気をどうぞお楽しみくださいね。

今日は「少年Kの1960年代➀テレビの普及と購入」をカキコキしますね。

0.「今日の記事のポイント」

by<br><span class="bold-blue">コロちゃん</span>
by
コロちゃん

今日の記事は、下記のような内容になっていますよ。どうぞ最後まで楽しみながらお読みください。

☆「年末年始は、少年Kの1960年代を投稿しますと、1960年代という時代」

☆「経済の高度成長と1960年代と、テレビの普及と1960年代」

☆「テレビの番組と1960年代と、テレビのチャンネル争いと1960年代」

☆「少年Kと1960年代」

1.「年末年始は、少年Kの1960年代を投稿します」

この「年末年始」はいつもの「社会派記事」ではなく、コロちゃんが少年時代だった1960年代の様子をお届けします。

テーマは「少年Kの1960年代」です。

そろそろ「年末」に入ってきましたけれど、皆さんは、ご実家へ帰省でしょうか? それとも、大みそかはご自宅で「紅白歌合戦」を見てから、神社へ「初詣」でしょうか?

えっ、今どき「紅白歌合戦」なんか誰も見ていないですか? そういえば、コロちゃんも、もう20年以上見ていないですね。

日に日に「年末らしい雰囲気」が町に出てきましたが、コロちゃんが少年時代の1960年代には、年末というと、近くの商店の商品が全部売り切れるほど活気がありましたね。

当時は「年末年始」とは、現在とは比較にならないほど、1年で最も重要な「イベント」だったのですよ。

今日は、そんなコロちゃんが少年時代だった1960年代の様子を書いてみたいと思いますね。12月30日から1月4日の「年末年始」に投稿しますので、是非お読みください。

今日の記事は、年末初日の【年末年始考】「少年Kの1960年代➀テレビの普及と購入」です。

2.「1960年代という時代」

皆さんの中にも「ALWAYS 三丁目の夕日※」という映画を見た方も多いと思います。

(※ALWAYS 三丁目の夕日:2005年:原作:西岸良平:主演:吉岡秀隆:配給:東宝)

この「映画」は西岸良平氏原作のコミック「三丁目の夕日※」を原作として、2005年に制作されました。

(※三丁目の夕日:1974年:作:西岸良平:ビッグコミックオリジナル)

この「映画・コミック」の描く社会は、1958年(昭和33年)の東京の「夕日町三丁目」でした。もちろん「町名(夕日町三丁目)」は架空ですが、それ以外の社会風景は史実通りです。

コロちゃんは、その時代に「小学校低学年」の幼い男の子でした。もちろん住んでいたのは「夕日町三丁目」ではなく、東北のある田舎町でしたよ。

3.「経済の高度成長と1960年代」

今日取り上げる1960年代という時代は、経済が高度成長し続けた時代です。ちょっと前までの「中国経済」みたいなものですよね。

下記のグラフをご覧ください。内容は下に書き出します。

「国土交通省 各年代の若年期の経済成長率」より

https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1112000.html
出典:国土交通省 若者を取り巻く社会経済状況の変化より(12月29日利用)

上記のグラフは「国土交通省」が発表している、1963~2012年の「各年代の若年期の経済成長率」です。

グラフの左側の方の、1960年代の「実質GDP成長率」が一番高い位置で上下していることをご確認ください。

この「1956~1972年の18年間が高度成長期※」です。日本はこの17年間に「平均9.3%」の実質GDP成長率を達成しています。

(※諸説あります)

下記に、「少年K」が小学生時代だった「1960年代の実質GDP成長率」を書きますね。

◎「1960~1969年:実質GDP成長率」

➀「1960年:12.0%」
➁「1961年:11.7%」
➂「1962年: 7.5%」
④「1963年:10.4%」
⑤「1964年: 9.5%」
⑥「1965年: 6.2%」
⑦「1966年:11.0%」
⑧「1967年:11.0%」
⑨「1968年:12.4%」
⑩「1969年:12.0%」

⑪「平均:10.3%」

https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1112000.html
(出典:国土交通省 若者を取り巻く社会経済状況の変化より:12月29日利用)

いやー、凄いですね。
(゚0゚)スッゴッイ!

ちょっと、2020年代の「日本」の「実質GDP成長率」と比較してみましょう。下記ですよ。

◎「2020年代の日本:実質GDP成長率」

➀「2020年:ー4.6%」
➁「2021年: 2.5%」
➂「2022年: 1.1%」
④「2023年: 1.2%」

上記の「1960年代」と比べると、可哀想なくらい低いですよね。しかし、この数字が「現在の日本の実力」なのですよ。
(。•́ – •̀。)ショボーン…

「1960年代」の10年間の「実質GDP経済成長率」を見ると、平均で「10.3%と」高い成長率を記録しています。

毎年10%以上の成長を続けますと何年で2倍になるのでしょうね。

確か「投資の72の法則」と言うのがありましたね。これは「72を金利で割ればお金が2倍になるまでの期間がわかる」という法則でしたね。

だからこの場合は、「72÷10=7.2年」となりますから、「毎年10%の成長を続けると7.2年で2倍」となりますね。

1960年代の「日本」では、経済規模が7年強で2倍に膨れ上がる急成長をしたのです。

2010年代(2010~2019年)の「平均1.04%成長」と比べると、なんと10倍近い「高度成長期」でした。

ただ、そんなことは田舎に住んでいる小学生の少年Kには何の関係もなく、少年Kは鼻を垂らしながら近所を走り回っていましたよ。

この「高度成長の恩恵」は、最初は東京の「夕日町三丁目」あたりから徐々に浸透し始めて、全国の津々浦々にまで拡がったのは、これから10年後の1970年代を待たなければならなかったのです。

4.「テレビの普及と1960年代」

少年Kが、最初に田舎町で「高度成長の恩恵」に接したのは、自宅に「テレビジョン」が入ったことでした。

資料を見ると、日本で初めてテレビ放送が始まったのは1953年です。戦後8年でテレビ放送が出来るようになったのですね。

その頃の記憶を覗いて見ると、少年Kが小学校4・5年生になった頃だったように思えますね。確か「東京オリンピック」が1964年でした。

その「東京オリンピック」を、学校の授業で見る為に、全国の小学校の視聴覚室にテレビが1台配置されたのも、その頃でしたね。

おそらく当時の「文部省(文部科学省に省庁再編は2001年)」が、「東京オリンピック(1964年)」開催を国民の間で盛り上げる為に予算措置をして「全国の学校に配備」したのでしょう。

ちょうどその頃に、少年Kの自宅にも「テレビ」が入ったのです。

それ以前には、ご近所でいち早くテレビが入った家庭に、近所の子どもたちが集まってテレビを見ていたことを思い出します。

今思えば、その家にとってはまったく迷惑だったでしょうね。

しかし、「隣近所は親子も同然の時代」でしたから、「子どもたちの襲来」を断ることは出来なかったのでしょう。

当時のテレビのお値段を調べて見ると、1960年に発売された「東芝製のカラーテレビ受像機は21インチで52万円」もしました。

なおその頃の「白黒テレビ」は5.8万円となっています。

当時の「大卒初任給は1.3万円」で、今年2024年の「大卒初任給は22.6万円」ですから、だいたい17倍になります。

そうすると、1960年の「カラーテレビの52万円」は現在の約880万円です。

げっ! こりゃとても買えないわ!
 Σ( ̄Д ̄;)ゲッ

しかし「白黒テレビの5.8万円」は約99万円となります。これなら、何とか手が届くかなー?
( ̄へ ̄|||) ウーム

現在の感覚で見てみますと、1960年の「カラーテレビ(現在価格:880万円)」は「ベンツ」で、「白黒テレビ(現在価格:99万円)」は「軽自動車」を購入する感覚でしょうか。

当然購入した家庭のほとんどは、当時拡がり始めた「月賦販売」という支払い方法だったと思いますよ。

今から思えば、あの少年Kが育った「貧乏家庭」で、よくぞ「テレビ」を購入できたものだと驚きますよ。

(このブログを読んだコロちゃんの姉さんから『そんなに貧しい家じゃなかったわよ』と☎がありましたよ)

少年Kの家には「父親」がいませんでしたから、当時病院で働いていた母親が頑張って月賦でテレビを購入したのでしょうね。

今思えば、母には感謝してもしきれないですね。

コロちゃんは、今日この話題をカキコキするまで実家の「テレビ購入」のことなど思い出すこともありませんでしたね。

ホントにコロちゃんは親不孝者ですよ。「かーちゃん、ごめんね。ありがとうね」。
(๑o̴̶̷̥᷅﹏o̴̶̷̥᷅๑)ウルウル

5.「テレビの番組と1960年代」

少年Kが、その小学生時代によく見ていたテレビ番組に「シャボン玉ホリデー※」がありました。

(※シャボン玉ホリデー:1964~1977年:日本テレビ系)

少年Kの住む田舎町では、当時テレビチャンネルが「NHK」と「民法1局」の二つしかありませんでした。

その「民間放送局:○○テレビ」の放送していた番組で、少年Kが良く見ていたのが「シャボン玉ホリデー」だったのです。

今調べて見ると、放送時間は毎週「日曜日の18:30~19:00」となっていますね。

おっかしいなー、コロちゃんの記憶だともっと遅い時間に毎日見ていたように思っていたんですけどね。
(*´・д・)はて?

多分、よく「テレビばかり見ないで勉強しなさい」と怒られていたから、記憶がいつもこの番組を見ていたように変わっちゃったのでしょうね。

この番組(シャボン玉ホリデー)を少年Kは大好きで、必ず見ていたように記憶していますね。

主な「出演者」は、双子の姉妹歌手の「ザ・ピーナッツ」と、コミックバンドの「ハナ肇とクレージーキャッツ」です。

「ザ・ピーナッツ」は、デビューが1959年ですから、少年Kよりは大分年上のお姉さんたちです。

当時歌っていた曲は「情熱の花(1959年)」や「悲しき16歳(1960年)」など多数ありましたね。

そして、少年Kの眼が釘付けとなったのが「ハナ肇とクレージーキャッツ」です。

この面々は「音楽性」よりも、「コミックバンド」として少年Kは喜んでみていました。

だけど、あとで知ったことですが「このクレージーキャッツ」は、戦争直後の「在日米軍のキャンプ」を回ったりしていた本格的な「音楽グループ」だったようですね。

メンバーは多いですよ。下記に担当楽器も書いておきますね。

◎「ハナ肇とクレージーキャッツ」

➀「はな肇:      ドラムス」
➁「植木等:  ボーカル・ギター」
③「谷啓:ボーカル:トロンボーン」
➃「安田伸:   テナーサックス」
⑤「石橋エータロー:   ピアノ」
⑥「桜井センリ:     ピアノ」
⑦「犬塚弘:       ベース」

なんとこの「音楽グループ」は、ピアノ担当が2人もいたのですよ。少年Kは「桜井センリ」のとぼけたキャラクターが好きだったですね。

少年Kが喜んでみていたのは、このグループの音楽性ではありません。「コミックバンド」として楽しんでいたのです。

「コミックバンド」と言うと、今では「ザ・ドリフターズ」を思い浮かべる若い方も多いと思います。

この「ドリフターズの加藤茶・志村けん」の役を、「クレージー」では植木等が勤めていました。

と言うか元々は「クレージー」の方が古いのですから、「ドリフターズの加藤茶・志村けん」の方が「植木等」を真似たわけですね。

この「ザ・ドリフターズ」が、多くの少年・少女たちの人気を確立した「8時だョ!全員集合」は1969年に始まっています。

この様に「ドリフターズ」が知られるようになったのは1970年前後からですから、「クレージーキャッツ」の活躍(1960年代前半)は10年近く前なのです。

「クレージーキャッツ」も「ドリフターズ」も、同じ「渡辺プロダクション所属」ですから、「ドリフ」が「クレージー」の後を追いかけていったという形になるのでしょうね。

よく「1960年代のクレージーキャッツ」、「1970年代のドリフターズ」と言われますけれど、少年Kが食い入るようにテレビ画面を見つめていたのは「ハナ肇とクレージーキャッツ」でしたよ。

6.「テレビのチャンネル争いと1960年代」

そこに「テレビ」があって、「姉と弟」がいればそこで起こることは時代とは関係がありません。それは「チャンネル争い」です。

「テレビ史」の流れからは、この1960年代に兄弟がいる家庭で、起きていたのが史上初の「チャンネル争い」でした。

それは「少年Kの家庭」でも同じでした。

「あんたはずーっと見ていたんだから、今度は私の番よ」by ねーちゃん

「んー、もうちよっと」by少年K

「いい加減にしなさい! ズルイでしょ!」byねーちゃん

「もう私の番よ、チャンネル変えるわよ!・・・あら、チャンネルどこやったの?」byねーちゃん

この時代の「テレビのチャンネル」は、ちょっと引っ張ると抜けちゃうのですよ。もちろん「リモコン」なんかはまだありません。

少年kは、時々「チャンネル争い」の前にテレビの右下にある「チャンネル」を、スポッと抜いて隠していたのですよ。

しかし「テレビのチャンネル」は、何度も抜き差ししていると、「テレビ写り」が悪くなってしまい、よくテレビの横を「ドン」と叩いて直したりしていましたね。

あれは、今から考えると「端子の接触」や「真空管」の中での機能の変化によるものだったと思われます。

まだ当時の「テレビ」は、安定した「品質」ではなかったのですよ。

何しろ「メイド・イン・ジャパン」は、世界市場では「安かろう悪かろう」と言われていた時代だったのですよ。

その後の「電気製品で世界市場を制覇した1980年代」までは、まだ20年ほどの時の経過が必要だったのです。

そんなことを知るはずもない「少年Kとお姉ちゃん」は、翌日もまた「チャンネル争い」をしていましたよ。

最後は「うるさいから、もう寝なさい!」と、おばあちゃんに叱られるのが定番でしたよ。

(普段は仲の良い姉弟でしたよ)

7.「少年Kと1960年代」

今日のブログテーマは、ちょっと趣向を変えて「1960年代の少年K」を「年末年始考」としてお届けしました。

少年Kは、今から思うと「貧しい少年時代」をおくっていましたが、比較する対象を持たない少年Kには、そのようなことは分かりません。

それに「高度成長」の影響は、まだまだ地方には及んでいない時代なのです。

それでも「一般家庭」に「テレビ」が購入され始めたのですから、少しずつ「貧しさ」から浮かび上がる気配が広がりつつありましたね。

そのような世の中の動きは、毎日の少年Kの生活には一向に届かずに、近所を走り回って騒いでましたね。

コロちゃんは、20年以上前のことですが、姉と連れ立ってこの故郷に地を訪れたことがあります。どうしても行かなければならない要件があったのです。

その時に、姉と二人で数十年ぶりに「故郷の実家」の周辺をあちこち散策したのですが、姉の口から出た言葉は「子どもの時の楽しかった思いでは一つもないわ」でした。

コロちゃんは、ふふふと軽く笑いながら「僕もだよ」と答えましたよ。コロちゃんと姉の「幼かった思い出」とは、辛い記憶ばかりだったのですよ。

この時に、コロちゃんの前に立つ姉の姿は、コロちゃんの眼には「小学校高学年の少女」に見えましたよ。

その一瞬だけは、コロちゃんは「小学校低学年の少年K」に戻ってしまいましたよ。

幼い思い出とは「楽しい嬉しい事」ばかりではありません。しかし「悲しい辛い思い出」も今のコロちゃんを形作ってくれた「大切な思い出」です。

現在のコロちゃんがあるのは、長い人生の数多くの経験と知識によるものですから、たとえ「辛い悲しい思い出」も、コロちゃんは大切に抱いて生きていこうと思っていますよ。

1960年代とは、今から60年以上前の時代です。「物質的には貧しい生活」でしたね。

しかし、そこで生きていた人たちは「戦前・戦中」の悲惨な時代を生き抜いてきた人たちでした。

驚くほど楽観的で、「明日は今日よりは良い日になる」と信じ込んでいました。

現在の2024年は、それから60年以上経ち「物質的にははるかに豊かな生活」をおくっています。しかし「常に不安」を抱えていて「将来への希望」が持てない社会が拡がっています。

コロちゃんは、昔が良かったとは言いませんよ。あんな「貧しい生活」はイヤですからね。

だから、これからの日本の将来は「不安がない希望が持てる社会」であって欲しいと思いますね。

いかがでしょうか、このような風景が少年Kの育った世界でした。ちょっとでも皆さんがご興味を持っていただければ、今のコロちゃんは嬉しいですよ。

コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。

このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします(^_^.)

おしまい。

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