今日のブログの記事は、一度投稿を取りやめたんです。なにしろ1万6千字あります。
題材の硬さからしても、とうてい皆さんに最後まで読んでもらえそうもないと思いました。
コロちゃんには、このような内容をコンパクトにまとめる力がないんです、
だけど、せっかく時間をかけて原稿をねりあげたものですから、ブログにアップしたという事実だけは記録しておきたいと思って、今回投稿しました。
皆さん、無理して読まないでください。読むのならば、つまみ読みで全体をスルーしてください。お願いします。
今回は「ドキュメント日銀漂流」(西野智彦 著 岩波書店 2020年11月発行)と「日本銀行失策の本質」(太田康夫 著 日経新聞出版社 2019年12月発行)を読み比べてみました。
1.読み比べると微妙に違う
コロちゃんは、経済にも興味があります。素人のおじいちゃんですから、大したことは知らないのですが、チョコチョコと一般向けの経済書を読んでいます。
最初に「日本銀行失策の本質」を2020年2月に一度読みました。興味深い内容でしたが、難しくてよく理解出来ませんでした。
先日「ドキュメント日銀漂流」を読み終わりました。
その時に、以前読んだ日銀総裁の同じ時代を扱っている「日本銀行失策の本質」にはどのように書かれていただろうかと思い出し、も一度そちらを読み直してみました。
読み比べると、2冊の本には微妙な違いがあるんですよね。これは並べて比べると面白いかなと考えたのが今回のテーマです。
2.時系列は「日本銀行失策の本質」が先行
2冊を並べて読むと「日本銀行失策の本質」が澄田総裁(1984~89年)から記載が始まってます。
次の総裁の三重野総裁(1989~94年)までは「日本銀行失策の本質」の方にしか登場しません。
「ドキュメント日銀漂流」は、その次の松下総裁(1994~98年)から記載が始まりますので、それ以降は比較して読みくらべてみたいと思います。
わかりやすいように、「2冊の本のまとめ」と「コロちゃんの感想」の小見出しの色を、下記のように色で分けることとします。
「日本銀行失策の本質」
「ドキュメント日銀漂流」
コロちゃんの感想
長い文章となりますので、ゆっくりお読みください。
3.「日本銀行失策の本質」に書かれていること
冒頭から二つの批判
「日本銀行失策の本質」は、冒頭に、2019年の6月に、日本の上場銀行の株式時価総額が、中国最大の銀行である中国工商銀行と並んだことを取り上げています。
日本銀行の超低金利政策が、日本の銀行の地盤沈下を招いたことを非難しているのです。
同時に、超低金利は最初から銀行に敵対的だったわけではないとも指摘しています。
1990年代半ばまでの超低金利は、不動産が担保となっている巨額の潜在不良債権を抱える銀行の側面支援となっていたそうです。
しかし、ゼロ金利の長期化は、再び銀行の体力を奪いかねない状況を生み出そうとしていると批判しています。
また「日本銀行失策の本質」は、世界に「日銀が実施してきた長期にわたる超低金利は避けるべき事態であり、日本のようになってはならないとの認識が広がっている」
このように、厳しい指摘をしています。
冒頭から2点の厳しい日銀批判をぶつけているのです。
コロちゃんの感想
日本の超低金利は1990年代半ばから始まり、98年頃には実質的にはゼロ金利政策が始まったと理解しています。
その政策を見ると、不良債権が多かった 2000年ごろまでの超低金利政策は正しかったと思っています。
しかし、その後の日銀は政治との関係で混乱して、結果的には異次元緩和という、さらなる超低金利政策に突き進むのです。
この日銀の金融政策は批判されるべきなのか、それとも能力以上の結果を求められただけなのかよくわかりません。
経済低迷への対策は結果が証明しますから、「失敗」だったのはわかるのですが、「どうすべきだったのか」の正解を知ることは難しいのです。
冒頭の「失策」の二つの批判は、ファクトとしては正しい指摘だとは思います。
ではどうすれば良かったのかは分からない。それを探るためにいろいろ読んでいきたいと思っています。
ただ、日銀に上手く日本経済の運営が出来なかった「結果責任」はあるとは思ってはいます。
4.澄田総裁の時代(1984~1989年)
「日本銀行失策の本質」澄田の消費税配慮
日本経済史最大の出来事のバブルの時代です。
本書では、日銀が利上げをためらった理由として「大蔵省が89年に消費税の導入を計画していた」ことをあげています。
「副総裁の三重野は澄田に利上げを打診したが、澄田は消費税導入前の引き締めには頑として首を縦に振らなかった」と記しています。
日銀は89年4月1日の消費税導入後に利上げしますが、ある日銀関係者は「すでに利上げは1年以上遅れていた」とこぼしていたと書いています。
利上げが遅れたことによってバブルを膨らませたと批判しているのですね。
本書では、澄田総裁が大蔵省出身だったことを指摘して「大蔵省OBの天下り総裁の限界」を示唆しています。澄田総裁は、古巣の意向を忖度したと示唆しています。
また、澄田総裁の失敗として、日銀が行なっている銀行の考査で、不動産融資のチェックが出来ていなかったことも指摘しています。
バブル期の当時は豪華な接待が日常化していたとされていますが、銀行監視の目が甘くなっていたのは否定できない事実のようです。
コロちゃんの感想
コロちゃんは、バブルの出発点は、1985年のプラザ合意で、アメリカの貿易赤字削減のために日本が内需拡大を迫られたことによると理解していました。
もっともそれは政府の所管ですから、政府の責任なんですが、本書にはそのような記載はありません。
日銀の「利上げが遅れた」ことについてだけです。
日銀としては、それだけで充分その責任は免れないという本書の主張なんでしょうか。
とりわけ、澄田総裁は、三重野副総裁の「利上げ諫言」をスルーしたという事ですから、その責任は重いですね。
そして、その三重野氏が次の総裁となって、今度は前のめりにバブル潰しをやり過ぎてしまうのですから、因果の巡りを感じてしまいます。
5.三重野総裁の時代(1989~1994年)
「日本銀行失策の本質」深追いしすぎたバブル潰し
バブルの絶頂でバトンを受け継いだ三重野総裁は、バブル潰しに乗り出します。
次々と利上げを敢行。就任後一年もたたない間に公定歩合を合計で2.25%も引き上げました。
政策効果がてきめんに出始め、資産価格下落が日本経済に重くのしかかることになります。
本書では、その理由として以下のように書いています。
「前任者が消費税に配慮して、利上げを遅らせ、日本経済が揺るぎかねないという強い思い」
そして三重野自身の強い信念です。
「貧しくても頑張れば、上を目指せるような経済環境こそが、日本も成長を支えてきた」
三重野総裁の目から見ると、資産価格が高騰し、株長者、土地長者が溢れかえる世の中は許せなかったのだろうというのです。
コロちゃんの感想
1986年~89年のバブル経済の熱狂は、リアルタイムに体験しました。深夜の銀座に人があふれ、芝浦の倉庫街のジュリアナ東京で若者が踊りまくっていました。凄まじかったです。
山高ければ谷深し。大勢の人々がバブルに狂乱し、その後ほとんどの人々が谷に落ちたのです。
日銀のお仕事は「物価の安定」ですから、それが出来なかった三重野総裁の責任は重大なものですね。たとえ、その行動の動機がいかに崇高でも免罪はされないと感じました。
ただ、当時の三重野総裁の一般の人気は高かった。
バブルを潰す「平成の鬼平」と呼ばれ、庶民では手が届かなくなってしまった土地価格を下げてくれて、悪人のバブル長者を懲らしめてくれるヒーローと思われていたんですよ。
(「鬼平犯科帳」は、当時大人気の池波正太郎作の時代小説で、『鬼平』と呼ばれる長谷川平蔵が悪を懲らしめる勧善懲悪ものでした)
三重野総裁の信念には共感しますが、日本銀行総裁としては及第点はあげられません。
日銀総裁には、信念以外の高い見識も必要だったと、今からなら言えると思いました。
6.松下総裁の時代(1996~1998年)
「ドキュメント日銀漂流」日銀法改正と金融危機
「ドキュメント日銀漂流」では、松下総裁の時代から記載が始まります。
1996年降ってわいたように日銀法改正論議が起こります。
日銀内が沸き立つ様子が詳細に描かれ、テクニカルな改正のもつ多くの法的問題等をめぐる動きがドキュメントとして描かれています。
そして1997年6月に改正日銀法が交付されます。
その時「衝撃波」が押し寄せようとしていました。
日本では、三洋証券が破綻し、北海道拓殖銀行、山一證券と破産・自主廃業の連鎖が続きます。
危機を食い止めるために、日銀が、取り付け騒動を防ぐためにギリギリの対応をします。
本章の最後には「カミソリの刃を渡るような危機を、日本はなんとかしのぎ切った」と記載されています。
そして、1998年の東京地検特捜部による、大蔵官僚たちの過剰接待疑惑による逮捕です。
日銀にも逮捕者が出ます。
もっとも、当時の日銀に倫理規定はなく、接待も禁止されていませんでした。むしろ金融界の生きた情報を集めるため、外部との接触を特例する空気が漂っていたとされています。
松下総裁は責任をとって辞任となりました。
「日本銀行失策の本質」危機下の日銀法改正
1995年に入ると、阪神淡路大震災が発生します。加えて日本経済にアメリカから強い円高圧力がかかっていました。
円相場は急騰。1ドル79円75銭と史上初めて1ドル80円台を突破します。
金利が1%を割るいわゆる「ゼロ近傍時代」の幕明けとなりました。
危機対応に取り組む松下総裁に日銀法改正というもう一つの難題が降りかかります。
しかし、そのタイミングに、2信組が実質破綻し、4銀行が破綻していき、金融システムは悲鳴を上げていました。
日銀が全力を上げるべきだったのは、法改正や組織改革ではなく、金融システムの立て直しに他なりませんでした。
松下総裁は結局、任期途中で退任しますが、追い込んだのは日銀の不祥事でした。
松下自身はクリーンな人でしたが、外部から来た総裁として日銀に巣食う接待に溺れた暗部を感知できなかった。
松下時代の迷走は大きかった。危機が起きているのに、それが充分認識できない。
それどころか自らの独立性を高めるための日銀法改正に注力し、危機の芽が膨らんでいくのを見過ごしてしまったのです。
コロちゃんの感想
90年代末期の金融危機については記憶があります。
全国で銀行が連続して破綻し、異様な雰囲気が日本を漂いました。山一證券野社長が記者会見で「社員は悪くありません」と大泣きした事も印象が深いです。
しかし、今この2冊の本で読むような「金融システムの危機」が迫っていたとは想像もしませんでした。
「ドキュメント日銀漂流」の記載と「日本銀行失策の本質」の記載は、同じ時間軸を描いているはずなのに大分印象が違いますね。
「ドキュメント日銀漂流」は内容は詳細ですが、淡々とニュートラルにドキュメントを記載しています。
日銀法改正の日銀独立問題についても「降ってわいた」と日銀側から見た視点で語っています。そこに批判的姿勢は感じられません。
それに対し、「日本銀行失策の本質」は強い日銀批判を展開しています。日銀は独立問題にかまけて危機対応が後回しになった主張しているのです。
両方合わせで読むと、日銀の仕事の内容とその周辺事情がよくわかります。
7.早見総裁の時代(1998~2003年)
「ドキュメント日銀漂流」独立性という陥穽
1998年、金融危機は進行し、日本長期信用銀行、更に日本債券信用銀行の国有化が決まります。
長銀、日債銀という大手銀行が相次いで破綻処理された衝撃は大きく、銀行の貸し渋りが全国規模で広がりました。デフレ圧力は高まり、景気は一段と冷え込みます。
日銀に対しても政治からの圧力が大きくなってきます。その時に日銀が当面の政治的圧力をかわす、窮余の策として考えたしたのが「ゼロ金利政策」だったと本書は書いています。
通常、金利はゼロ以下には低下しません。もし、マイナス金利になると、家計や企業は預金を現金に換えようとし、金融システムが崩壊する恐れがあるからです。
こうした「ゼロ金利制約」への接近は日銀にとってできれば避けたいリスクだったのです。
にもかかわらず、速水体制でのコールレート引き下げ(当時史上最低の年0.25%)ました。
本書は「ここで手を打たなければまずいという感じでするっと決まった」と企画室関係者の話として書いています。
この時「大胆な金融緩和」を求める声がアメリカでも高まってきます。
経済学者ポール・クルーグマンが98年に論文を発表しました。その内容は以下のようなもので大きな反響を呼びました。
「デフレ下で金利がゼロに近づくと伝統的な金融政策では効果がなくなるために、日銀はインフレ期待を生み出すよう『無責任であることを確信させる約束を』するべきだ」
金利がゼロになっても、インフレ期待が高まれば景気が回復するという主張です。
そのためにインフレ目標を設定し、国債を買ってマネーを大量供給すべきという問題提起は、日本の政治家や一部の経済学者に浸透し始めます。
その圧力の中で、速水総裁は「国債引き受け絶対反対」の姿勢を崩さない。その窮余の策として出されたのが「ゼロ金利政策」だったと本書は書いています。
日銀は、1999年に「デフレ懸念が払拭されるまでゼロ金利を継続する」と追い込まれます。
その後も円高と株価の下落は続きます。追加緩和を迫る政治の圧力の中、速水総裁は「現状維持」を貫きます。
その中でリフレ派の台頭が始まります。上智大学の岩田規久男教授は「インフレもデフレも貨幣的現象であり、量的緩和政策に転換すべきだ」と主張します。
速水総裁は敬虔なクリスチャンで、総裁室の奥の小部屋には「平安は主にあり」「恐れるな、私はあなたと共にいる」との聖句が書かれた掛け軸があったそうです。
困難に直面するたびに速水総裁は、この聖句を思い出したと書いています。
そして、2000年のゼロ金利解除です。金融緩和を望む政府との軋轢が高まりますが、速水総裁はそれを押してコールレートの0.25%への引き上げを決断します。
その後日本でも株価の下落が続き、半年で方向転換せざるを得なくなり、日銀は「ゼロ金利解除は誤りだった」と総括せざるを得なくなります。
「日本銀行失策の本質」独立の重圧 速水のゼロ金利蛇行
1998年にアジア通貨危機が発生します。その影響を受けてこの年の成長率はマイナスに落ち込みます。
このころからデフレに関する議論が盛んになってきます。デフレの長期化がデフレスパイラルに代わっていく事態でした。
自民党からは、長期国債の買い入れ増額や国債引き受けを求める声が強まります。
速水総裁は、無担保コールレート0.15%への引き下げを決めます。先行きデフレ圧力が高まる可能性に対処するために、短期金利をゼロに向けて下げていく姿勢を示したのです。
これが「ゼロ金利政策の始まりです」。自民党からの、国債買い増しの要求は受け入れず、金利を消す選択肢を取りました。
速水総裁は、利上げは勝ち、利下げは負けという日銀の価値観の下で育った古い日銀マンだったとされてます。
金融システムが激しく揺らいでいるときには、ゼロ金利政策の決断をしたが、それはあくまで危機対策で、危機が一服すると金利がゼロに近い状況に違和感を覚えるようになる。
2000年8月に利上げに踏み出します。
本書では、この決定はおろかだったと断言しています。
日銀は世界経済が回復しているとしていましたが、アメリカではすでにITバブルが破裂していました。実際、日銀が利上げした後に、日本経済は急速に悪化の道をたどり始めます。
その結果、日銀は利上げのわずか半年後に利下げに追い込まれます。
本書では、速水時代を総括すると、誤ったゼロ金利の解除の結果政府からの日銀批判が強まり、結果的に量的緩和、株式買い入れという異形の政策を生み出してしまったとしています。
コロちゃんの感想
当時の記憶を探っても、長銀や日債銀の破綻は覚えていますが、日本経済がそのような危機にあったとは信じられない思いです。
金融政策は、結果が出るまでに半年から2年程度かかるといわれていますから、なかなか身近には感じられないものだと思いました。
速水総裁の項を読み比べると、「ドキュメント日銀漂流」のほうは、日銀内部の動向や傾向を詳しく書き込んでいます。論争なども詳しく紹介されています。
また、この時代に実務を担っていた中堅幹部の当時の考え方・主張なども出てきますが、現在の黒田総裁の次期総裁候補に名前が挙がっていたりしていますので、興味深いですね。
「日本銀行失策の本質」のほうは、日銀の金融政策の誤りに焦点が当てられています。論点がそれに収れんするようになっているせいなのか、全体が理解しやすく思いました。
それにしても政治家と世の中は、「金融緩和・ゼロ金利」が景気上昇へとつながると信じていて、日銀はそういう視点では見ていないことが本書で詳細にわかるのも興味深い。
現在では、ゼロ金利でも景気上昇には至らないのがはっきりしていますが、当時は誰もわからなかったのです。
そして、2000年の「ゼロ金利解除」とそれへの政治の風圧です。こういう話は、マスコミでは絶対流れませんから、本書ではじめて知ることばかりでした。
ここまで、二冊の本の内容を簡単にまとめて記載してきましたが、正直まとめた内容に自信がありません。
何しろ、専門的すぎます。誤りや曲解があるかと思いますので、チャレンジとして、ご容赦願います。
8.福井総裁の時代(2003~2008年)
「ドキュメント日銀漂流」反転攻勢、量の膨張と収縮
米英のイラク戦争と中国の新型肺炎SARSで騒然とした一方、日本経済は低迷を続け、平均株価が¥8000円に凍り付いた時代でした。
福井新総裁は、国会で以下のような政界に配慮した発言を行っています。
「守りの姿勢に入ろうという気はございません、むしろ積極的に政策行動をすることによって、それが評価を得られれば、独立性の良さが国民の皆さんにわかっていただける」
そして福井総裁は就任から40日余りで、「当座預金の5兆円引き上げ」「株式入買い入れ」「ABS(中小企業の売掛債権)の買い取り」と、量的緩和拡大を立て続けに決めたのです。
福井総裁自身は、伝統的な「日銀理論」の中枢に座り、量の効果には一貫して懐疑的でしたが、自ら総裁に就任するや、迷わず量の拡大に舵を切ったのです。
福井総裁の胸の内を、本書は以下のように記載しています。
「政府の円安政策に協力するから、あとは任せてほしいというのが福井総裁の戦略だった。」
「思い切った量的緩和でデフレ脱却を果たし、5年の任期中に元の姿に戻すことを、福井はひそかに思っていた」
2005年郵政民営化法案が「小泉劇場」と言われた壮絶な解散総選挙の末に成立したころ、景気は踊り場を脱し回復基調に戻っていました。
緩和解除のチャンスをうかがっていた日銀は、2006年3月解除に向けて動き始めますが、それに立ちはだかったのが、当時官房長官の安倍晋三でした。
しかし福井総裁は、相当な覚悟を持って3月に路線転換を果たします。そして7月を目標にゼロ金利を解除し、コールレートの0.25%引き上げと動きます。
日銀内での福井の求心力はますます高まったその時、村上ファンド問題が発覚します。日銀の総裁が村上ファンドに投資して、解約手続きが、量的緩和解除の前月だったこと。
「インサイダー取引。売り抜けと取られてもしょうがない」と批判されたのです。
しかし、福井は「反省すべきは反省し、職責を全うする」と言い続け、風圧をしのぎ切ります。
「日本銀行失策の本質」驕り、生え抜きの独善
福井総裁が就任時に、のちに問題となる種がまかれます。
関係者によると、日銀の事務方は保有する株式の信託などの内規に沿った対応を求めましたが、福井新総裁は「俺が信用できないのか」と返したとあります。
この就任時の手続きは極めて重要で、福井新総裁は実は、ファンドに出資もしており、株式も保有しているのに、隠したのか忘れていたのか不明だと本書は記載しています。
福井総裁が進めたのは、量的緩和の拡大でした。2003年10月の緩和の時には、実は小泉総理が衆院を解散しています。
先進国では中央銀行は選挙前の金融緩和は避けるのが常識とされていますが、それを無視して、政権へ援護射撃するかのような政策変更だったとも記載しています。
福井総裁は2006年につまずくことになります。村上ファンドに出資していることが明らかにされたのです。しかも、解約のタイミングが量的緩和解除の1~2か月前の売り抜けにも映りました。
福井の不祥事は、金融政策運営に暗い影を落とします。デフレ下で量的緩和、ゼロ金利を解除し、日本を失われた10年から失われた20年に導いてしまったのです。
信任が揺らいだままの福井の暴走は2007年も続きます。政策金利を0.25%から0.5%に引き上げました。
リーマン後の日本経済の腰折れを考え合わせると、この時の福井の判断は正しくなかった。
政治家として実社会に接し、勉強会などを通して経済動向を分析している安倍の知性がエリート総裁よりも勝っていたと本書は記載しています。
福井が暴挙に至った背景には、就任当初に政府と一体の過度の演出の結果、必要以上に量が積みあがったこと。
そしてデフレの中で量を解除せざるを得なくなり、身動きが取れなくなったことによると断言しています。
日銀の独立性へのゆがんだこだわりが、日本経済を揺るがす事態となったのであると厳しく指摘しているのです。
コロちゃんの感想
イラク戦争は、当時衝撃的でしたから、よく覚えています。なんとなく暗い世相でしたね。
中国の新型肺炎SARSは、まだ今ほど世界のグローバル化が進んでいなかったせいか、遠い国の出来事と他人事のように感じていました。
そして、当時の日本銀行や金融政策には、まったく興味がなく、知ろうとも思いませんでした。おそらく世の中のほとんどの人がそうだったと思います。
当時は、経済動向に関与して動かすことができるのは政府のみと、みんな考えていたと思います。
日銀や金融政策が知られるようになったのは、この後の2012年の民主党政権が敗北した総選挙以降ですね。次の白川総裁の時代になります。
この時の総選挙では、安倍晋三氏が金融緩和を掲げて選挙で勝利して政権復帰しました。みんなが金融政策に初めて注目したのはその時からと思います。
「ドキュメント日銀漂流」は、福井総裁に批判はあるものの、抑えたかきかただと感じました。
日銀本流出身者は、金融緩和での経済再生に懐疑的ではあるものの、政府との関係上何もしないわけにはいかないから「ゼロ金利」に踏み込む。
それが、やっと勝ち取った「日銀の独立性」を守る道だと信じて。
しかし、その後村上ファンド問題で福井総裁は大きく威信を落とします。
それにもかかわらず、就任直後から、政治に配慮して大盤振る舞いした金融緩和の大ぶろしきをたたみにかかります。
これを読む限りでは、信念の人だったのでしょうね。「ドキュメント日銀漂流」で読む福井総裁の項は、功罪ともにあるように読めます。
それに対し、「日本銀行失策の本質」での福井総裁は、悪代官そのものです。
当初から、日銀内部の関係者の話として、歴代の総裁がファンド投資や株式投資で必ず行う手順を守らなかったことが記載されます。
政治との関係でも、選挙前に金融緩和を行う禁じ手を使ったと断定します。
日銀のお仕事の金融緩和についても、政治との距離感で当初に大盤振る舞いを行い、その後始末で、デフレ下で量的緩和とゼロ金利の解除を強行したと言い切っています。
福井総裁の項の最後には「日銀の独立性へのこだわりがゆがんだこだわりが、日本経済を揺るがす事態となったのだ」と断言しているのです。
本書のほうが、日銀をとことん批判していると思いました。日銀のお仕事のファクトは同じなんです。それに対する評価がだいぶ違うように思えます。
福井総裁に、投資ファンドや株式保有についてのわきの甘さがあったことは間違いないでしょう。それは、日銀エリートの驕りと言われても仕方ないですね。
同じ日銀出身の総裁は、数多くいらっしゃいますが、ほかの方はこのような問題は起こしていないんですから。
しかし、金に汚いのと金融政策の評価はまた別のものです。
金融緩和するのも、一度緩和したらいずれ引き締めなければならないのも、経済法則からすれば当然のことですから、あとはそのタイミングの判断になります。
まず、金融緩和が総選挙の争点になるような当時の政治状況があります。これは、日本の政治史上で初めてのことです。
その背景のもとで、福井総裁のとった、最初に緩和の大盤振る舞いで政治に「貸し」をつくる。
そして、その後にスケジュール通りに「貸し」の回収に入ることは、政策としては理解できないこともないと思いました。
あざとい手ですけど、政治技術の範疇かと。
9.白川総裁の時代(2008~2013年)
「ドキュメント日銀漂流」危機の再来、政治との確執
衆参ねじれ状態の中、福田康夫内閣の政権運営は困難を極めます。
次期日銀総裁の人選をめぐって、野党民主党は「財政と金融の分離」を掲げて、元財務事務次官の天下りは認められないと反対の声を上げました。
この騒動は、高度な専門性が求められる中央銀行の人事に「むき出しの政治」を持ち込む前例となりました。
2008年、リーマン・ショックが襲来します。株価は急落、円相場は急伸、日銀は大量の資金供給に乗り出して対応します。
しかし、株価は下落しバブル後最安値を更新し、景気はまさにつるべ落としの状態となり、日銀はみるみる追い込まれていったと本書は記載しています。
しかし、市場金利を殺すゼロには戻さないと白川総裁は決めていたとあります。日銀の「出し惜しみ」に対する不満と批判はますます膨れ上がります。
民主党政権が発足しても、「自民党時代とは違う何か」を求める政権に日銀は悩まされるのです。
2011年東日本大震災が発生します。外為市場では、日本が海外資産を円に換えるのではないかという観測から円が急騰します。
野党自民党では、安倍晋三を会長とする「増税によらない復興財源を求める会」を発足します。リフレ派の決起です。
菅総理は退陣を発表し野田内閣が発足します。新政権発足後も円高にはブレーキがかからず、政財界の不安と日銀不振はピークに達するのです。
「時代の空気が変わりつつある」と白川は憂慮していました。経済人や報道陣の間でもリフレ政策を支持する空気が広がっているように感じたとあります。
2012年、衆議院が解散されると、安倍率いる自民党は「無制限の金融緩和によるデフレ脱却」を掲げ、選挙戦に突っ込んでいくのです。
そして、安倍自民党が勝利します。
本書は、以下のように記載しています。
「国民の支持を受けた安倍政権と日銀が決定的に対立した場合、金融政策と日本銀行という組織はどうなってしまうのかと、疑問と不安が交錯し、容易に答えは出てこなかった」
白川総裁は、任期切れ前の辞職を検討しながら、安倍政権とぎりぎりの交渉をつづけます。
選挙で選ばれていない専門家集団が、国民政策を左右する政策を決めることの「正当性」が問われているのでしたと本書は書いているのです。
そして「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日銀の政策連携について」(アコード)という歴史的な共同声明が出されます。
白川総裁は「このような文書で、後世歴史の評価に耐えられるだろうか」と漏らしていたとされています。
「日本銀行失策の本質」独立で直面した政治との対話、白川が問われた危機対応
福井総裁の後任選びは、衆参で多数派が異なる「ねじれ」のもと混迷を極めます。福田総理が提示した候補は民主党が認めず、副総裁の白川だけが同意されました。
その結果福井の任期満了までに、次期総裁が決まらない異常事態となりました。その後、白羽の矢が立ったのはすでに副総裁についていた白川でした。
白川はシカゴ大の経済学修士をとっている学究肌で、理論派の日銀マンでしたが、総裁としての指導力、政治力は未知数でした。
一つ目はリーマン危機対応です。アメリカ、イギリス、欧州、スイス、スウェーデン、カナダの6か国が協調利下げをしているのに、日本は加わりませんでした。
白川はその後、ようやく事の深刻さに気付くことになります。
リーマンが破綻するや米国はもちろん、欧州も国際金融危機モードに入りました。日本が危機モードに入ったのは、リーマン破綻から3か月もたってからでした。
日本経済は、日銀による金融引き締めの影響とリーマンショックという外部パンチのダブルショックに見舞われたのです。
自民党に代わって政権を担った民主党は、経済運営に慣れてないうえに、危機対応の経験もない。独立への強いこだわりを持つ白川との溝が広がっていくことになった。
運が悪いのでしょうか、2011年に東日本大震災が起こります。日本経済は厳しい状況に追い込まれていきます。
そうした中で、日銀に対する批判が強まっていくのです。
震災から3か月後に超党派の議員による「増税に寄らない復興財源求める会」が安倍晋三会長のもとで声明を出します。
声明は、デフレ脱却、円高防止のために一層の金融緩和を訴えていました。
日銀は、物価目標設定に消極的でしたが、明確に求められることとなりました。
日銀から見れば「どう考えてもおかしな要求」ばかりに映りましたが、それを公約に掲げた安倍が選挙で大勝したのが現実だったのです。
日銀は「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日銀の政策連携について」という共同声明を出すこととなります。
白川は、のちに自書で「金融政策論議の政治化という先進国では通常考えられないような異常な事態だった」と振り返っています。
結局、白川総裁は任期満了を待たずに辞任します。
白川時代の何がまずかったのでしょう。学究肌の白川は、理論に忠実な政策運営にはたけていたのかもしれません。
しかし、超ド級の危機においては、普段ならタブー視される対応に踏み込む必要が生じます。
白川時代には、その危機が、リーマン危機、東日本大震災と2回も訪れた。その対応が甘かったのではないか。
もう一つは政治との対話力、そうした配慮が十分ではなかった。
独立性には、独立を支える理論とそれを支えるコミュニケーション能力が求められる。後者が欠けていたのではないかと本書は指摘しています。
コロちゃんの感想
間違いなく、日本が危機にあった時代ですね。リーマン危機、民主党政権発足、東日本大震災、安倍政権発足と、経済・政治と日本のあらゆるシステムがきしみます。
特に福島原発事故は、あわや3000万人が強制避難になる寸前に至る事態だったことが後の検証で明らかにされていますから、日本存亡の危機だったことは間違いがありません。
その危機の時代の経済政策を担う、政治と日銀の関係が一番緊張が高まった時期に、白川総裁という学究肌のエリート日銀マンが就任したわけです。
本書で読む限りでは、ご本人にも、日本にも「お気の毒に」としか言いようがないと感じました。
「ドキュメント日銀漂流」では、白川総裁はむき出しの政治の暴力に抗いながら、少しずつ後退していく被害者のように読めました。
まあ、政治家とエリート官僚が本気で対峙したら、かなわないのが当然でしょうから、むべなるかな。そういうことなんですが、やはり物足りない人物と思えてきます。
「政府・日銀の共同声明」に「構成の歴史に耐えられるだろうか」と漏らすぐらいなら、ケツをまくればいいんですよ。
本書での白川総裁の姿は、政治に押しまくられそのまま土俵を割る情けない力士のように感じました。本書は、政治と日銀の関係を偏りなく冷静に描いています。
「日本銀行失策の本質」では、より強く日銀に批判的です。
上記の本は、政治側の強硬姿勢を批判的雰囲気で描いているのに対し、本書では、日銀の批判点として、東日本大震災等の災害対応の不足と政治との対話力をはっきりと挙げています。
よみ比べると、政治が日銀の専門領域にズカズカと踏み込んできたことを、どう評価しているかの差に気付きます。
日銀を「政治から押しまくられる被害者」としてみるのか、それとも「政治との対話力がないなさけない日銀」として見るかの違いですね。
いずれにしろ、学究肌の日銀エリートには荷の重い時代状況だったといえると思いました。
10.黒田総裁の時代(2013年~)
「ドキュメント日銀漂流」ゴール未達そして漂流
大胆な金融緩和さえ行えば、デフレから脱却できるという安倍総理の一本足打法(財務省幹部)のもと、黒田日銀総裁が誕生します。
「黒田バズーカ」の登場です。日銀は、異次元の金融緩和として「短期決戦」を目指して思い切った金融緩和を進めました。
黒田は、就任後初の衆院予算委員会でも、過去の日銀の政策を批判し「日本銀行として反省すべき」と述べました。日銀の政策を180度転換したんですね。
始まってから1年は、まずまずの成果を上げたと関係者は考えていたといいます。
「これは後で判明したことだが、景気は既に前年11月に底を打ち、安倍内閣発足時には穏やかな景気回復が始まっていた」と書かれています。
安倍総理と黒田総裁は、運がよかったんですね。
そして「黒田バズーカ第二弾」と「マイナス金利導入」です。不利益を被る金融界との不協和音などが描かれています。
そして長期戦となることによる「副作用」の拡大です。日銀は専門的な知見から様々な手法を提示していますが、事態を制御しているようには、本書からはみえませんでした。
「金融政策がこうも難解複雑になったのは、2%達成まで緩和を続けざるを得ない苦しい事情と、緩和の副作用をこれ以上放置できない現実論との狭間で、妥協のパッケージを積み上げてきたからである」とあります。
黒田総裁は、2019年11月の国会報告の場で以下のように述べたと本書では記載しています。
「確かに私どもの判断が楽観的すぎた(中略)政策として間違っていたとは思わないが、予想していたよりも、根強い家計、企業の賃金、物価感というのがそう簡単に転換してこなかったということが一つあるのかなというふうに思っております。これは私どもとしての反省でございます」
短期戦に失敗した司令官としての正直な見解なんでしょうけど、何とも「言い訳」みたいに聞こえる言葉に感じましたね。
「日本銀行失策の本質」屈服 アベノミクスの衝撃
白川体制で日銀批判が強かったのは、政府に協力はするが、実際に繰り出すのは効果が小さい「小出し戦略」だったことだと本書は書いています。
そこで黒田は「消費者物価上昇率2%、目標2年の期間、マネタリーベースと国債・上場投資信託の保有量2倍、長期国債の平均残存期間2倍を目指す」という量的・質的緩和を打ち出しました。
この新しい金融政策のベースになるのは、デフレは貨幣的現象であるという認識に基づく、リフレ派の論でした。巨額のマネーを供給すれば、デフレは脱却できるとの考え方です。
このお金の流れを本書は検証しているのですが、リフレ派の理論通りにはいかなかったことが、その後実証されています。
その後日銀は、2年後に2%達成の約束がほぼ絶望的となるタイミングで、金融緩和をさらに強化します。
深刻なのは、この政策を支える理論がないことだと本書はいいます。
「理論なき政策という狂気の中央銀行に堕落してしまった」とまで酷評しているのです。量的・質的緩和を深堀しても、当然のことながら、効果は出ませんでした。
そこで出てきたのがマイナス金利です。本書は「奇策」と表現しています。銀行セクターへの副作用が多きいのです。銀行セクターの安全性と流動性を揺さぶりかねないと指摘しています。
マイナス金利政策は、当然のことうまくいきませんでした。日銀は「総括的な検証」に追い込まれますが、その内容についても「怪しげな検証」と徹底して批判しています。
その後、日銀はイードルカーブコントロールという、短期金利と長期金利(10年国債)を日銀が実質的に決める仕組みに変えたのです。
しかし、これについても本書は、以前の時代に逆戻りしてしまったと批判しています。
一方、黒田の功績として、危機対応を上げています。東日本大震災の影響でデフレの恐れが強まっているのに対し、金融緩和でデフレでない状態まで戻したのは事実と書いています。
ただ、日本経済が強まったわけではないとの但し書き付きでですが。
最後に本書はこの項で、以下のように書いています、
「痛み止めを打ち続けているうちに、日本経済は競争力を失っていく、緩和が円安・株高を演出し、その状態に安住するために構造改革を進めようとする意欲を失っていく」
著者が黒田日銀について言いたかったことは、これに尽きるのかもしれません。
コロちゃんの感想
黒田氏が日銀総裁に就任したのは2013年ですから、まだ皆さんもよく覚えていらっしゃるかと思います。
2012年12月の総選挙で安倍晋三氏は「金融緩和」を総選挙の争点に押し上げて勝利し、政権に復帰しました。
金融政策が一般に広く知られるのはこの時が初めてだったと思います。コロちゃんも、注目しだしたのはその時からです。
日銀の主流派は、金融緩和で日本経済の再生がそう簡単には成し遂げられないと考えていたらしいことは、本書2冊のところどころに出てきます。
しかし政治の世界ではそうは考えずに、日銀に「思いきった金融緩和」を求めます。
ついには、それに同調する黒田氏を日銀総裁に押し上げるのですが、実際に「異次元の金融緩和」を行ってみると、やはり思うようにはいきません。
「ドキュメント日銀漂流」は、結果は失敗していますから、批判的なトーンはありますが、比較的平板な落ち着いたドキュメントと思いました。最初の1年は成果と書いていますし。
それに対して「日本銀行失策の本質」の方は、徹底的な批判です。特に「理論なき政策という狂気の中央銀行に堕落してしまった」とは、頭脳集団に対して最大の侮辱の言葉でしょう。
一応、危機対応を功績として付け足していますが、やはり表題通りの「失策の本質」をえぐるように指摘しています。
11.全体を読み通して
この2冊の本の最初は、1984年の澄田総裁から始まります。
コロちゃんは、そのころには歴史や経済には興味はあり、いろいろ一般向けの本を趣味で読んだりしていましたが、金融政策や日本銀行年の総選挙の時からです。
当時は民主党政権で、円高や株価の低迷と経済不況で苦しんでいました。
その時に総選挙となったわけですが、野党の安倍自民党は「大胆な金融緩和でデフレを吹き飛ばす」と叫んだのです。
それまでは、世の中に金融政策がどのように、自分たちの生活に関係するのかはほとんど知られていませんでした。
ですから、金融政策をつかさどる日銀は、「エリートの頭脳集団」と思われていたと思いますが、そのやり方がだめだと、保守派の安倍自民党が言い出したのですから、違和感ありまくりです。
保守やリベラルという政治の軸と、別の金融政策という軸が存在することを知ったのはその時です。
2冊の本書を読むと、その金融政策という場で、政治と日銀が独立性をめぐってせめぎあいをしている姿が浮かびます。
松下総裁は、政治家と大蔵官僚の緊張のあおりで棚ぼた的に独立性の法改正を勝ち取りますが、その後の総裁は、その時その時の政治との力関係で、金融政策の手綱を緩めざるを得ません。
そして、白川総裁になって、とうとう押し切られるままにやめるところまで追い詰められます。
これで、政治の意向をくんで異次元緩和の黒田総裁が結果を出せれば、ドラマならば大団円になります。
しかし、やはり金融政策は政治家の考え通りに動かすことはできないのは過去の歴史が示すところですね。
今回もおなじになりました。
こう全体を読みとおすと、金融政策において、間違った人を責めるのは意味がないように思えてきました。
私たち日本人は、失敗が起こると「戦犯」を見出して責めることが常なように思えますが、金融政策はやってみなければ結果がわからないことが多くあるように思えます。
異次元の金融緩和にしろ、日銀正統派の理論からは明らかな無理筋の金融政策だったのでしょう。
しかし、行なって誤っていたことをだれの目からも明らかにしなければ、世の中が納得しなかったのでしょう。
民主主義政治体制とは、そのような非効率と非論理性を内在した体制なのかとも思います。
失敗の責任を取るのは、総裁と政治家の責任ですが、まだ誰もとっていません。このままでは、誰も責任は取らずに終わりそうです。
今後の日本の金融政策は、黒田日銀とアベノミクスの異次元金融緩和の失敗をうけて、また以前の金利で経済をコントロールする方法に戻るかと思います。
その時にどのように今回の失敗を総括するのか興味深いです。
やはり、日本経済の成長率を上げる道は、多くの層に痛みがあり、社会が不安定化する恐れのある大規模な規制緩和と改革を行うしかないのでしょうか。
そして日本はその道に進む合意が取れるのでしょうか。こちらも興味津々です。本書は興味深いですよ。ぜひ読むことをおすすめします 。
コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。
このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします(^_^.)
おしまい。
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