【年末年始考】「少年Kの1960年代⑤」ある朝の風景

生活

おはようございます。

現在コロちゃんのブログは、「年末年始考」として、以前に1度発表した「少年Kの1960年代」シリーズを「リライト」して再び発表しています。

今のコロちゃんは、どこから見ても「おじいちゃん」ですが、最初から「おじいちゃん」だったわけではありません。
(`з´)ノ☆当たり前だよ!

今から60年程前には、「元気で可愛らしい少年だった時代」があったのです・・・多分。
(。・_・?)ハテ?

今の小学生の子どもたちの「朝の行事」と言ったら、「起きて、ご飯を食べて、学校へ行く」ことでしょうね。

しかし、少年Kには当時「朝の大切な役割」があったのですよ。

今日は「シリーズの第5作」です。少年Kの当時の「ある朝の様子」をお伝えしますね。

0.「今日の記事のポイント」

by<br><span class="bold-blue">コロちゃん</span>
by
コロちゃん

今日の記事は、下記のような内容になっていますよ。どうぞ最後まで楽しみながらお読みください。

☆「年末年始は、少年Kの1960年代を投稿しますと、姉からいきなり電話がありましたよ」

☆「少年Kのある朝の風景と、コケコッコー!とニワトリが鳴く」

☆「プーファーと納豆売りのおじちゃんが通ると、少年Kに飢えた記憶はありません」

☆「経済が成長すれば食肉量が増えますと、三つ子の魂百までだね」

1.「年末年始は、少年Kの1960年代を投稿します」

この「年末年始」はいつもの「社会派記事」ではなく、コロちゃんが少年時代だった1960代年の様子をお届けしています。

テーマは「少年Kの1960年代」です。

1960年代に少年時代をおくった少年Kは、元気いっぱいの少年でした。

今では「家庭」で飼っている生き物といえば、ワンコとニャンコぐらいでしょうか? ああ、コロちゃんの「長男一家」では、ハムスターも飼っていましたね。

それと「小鳥」ぐらいは、お子さんのいる家では飼ってっているかも知れませんが、1960年代の少年Kの家では「ニワトリ」を飼っていたのですよ。

今日は、その「ニワトリの世話」を中心にお話ししますね。

なお、【年末年始考】「少年Kシリーズ」をまだお読みになっていない方は、下記のリンクからお読みください。

このシリーズは、どこから読んでも楽しいようにはなっていますが、最初の①からお読みくださることをお勧めしますよ。

【年末年始考】「少年Kの1960年代➀」テレビの普及と購入
【年末年始考】「少年Kの1960年代➁」映画は娯楽の王様
【年末年始考】「少年Kの1960年代➂」4世代家族
【年末年始考】「少年Kの1960年代④」ガキ大将

2.「姉からいきなり電話がありましたよ」

今日は「少年Kの1960年代⑤:ある朝の風景」をご紹介する前に、ちょっとコロちゃんの姉さんの話しを書きますね。

先日コロちゃんは、姉さんから久しぶりに☎をもらったのですよ。

コロちゃんは「おー久しぶり。元気?」といつも通りにお話しをしました。

コロちゃんの姉さんは、コロちゃんちから、車で40分ぐらいのところで元気で暮らしているのです。

コロちゃんは、先日以来のブログ記事「少年Kの1960年代」で、もう50年以上も昔のお話しを書いているのですが、その中には「姉が登場する場面」もありました。

その「少年Kのブログ記事」を姉さんはしっかり読んでいたのですよ。

「あー、そういえば姉さんには、ブログに登場するよって言ってなかったよねー?」byコロちゃん

しかし「姉さん」はむしろ嬉しそうに、コロちゃんと「少年・少女時代」のあれこれを話し始めました。

そうなんですよね。「少年Kと少女の姉さん」の二人は昔には「辛いこと・イヤなこと」も沢山ありましたが、決してそればかりではなかったのですよね。

それにイヤな体験は「少年Kと少女の姉さん」も共通のものでしたから、二人はむしろ「肩寄せ合って支えあう仲間」だったのですよ。

ですから、コロちゃんと姉さんは今でも仲が良いですね。姉さんは「同じ苦労を共にした仲間」なのですよ。

その姉さんが言っていたのが下記のことです。

by<br><span class="bold-blue">コロちゃん</span>のお姉さん<br>
by
コロちゃんのお姉さん

少年Kの実家はそれほど貧乏ではなかったわよ。

ただ祖母は「始末屋」さんだったわね。

コロちゃんのお姉さんは、コロちゃんよりも3つ年上ですから「少年K」よりも、はるかに多くのことを憶えています。

実家の「経済状態」などは、幼い子どもにはわかりませんからね。だから「姉さんの記憶」の方が確かなのかも知れません。

しかし、コロちゃんが考えたのは別のことでした。姉さんは「祖母」のことを「始末屋さん」といったのです。

皆さん「始末屋さん」という言葉をご存じですか?

コロちゃんはもちろん知っていますが、最近ではもう「死語」ではないかなと思ったのです。

「始末屋さん」とは、「常に節約を心がけて、無駄遣いをしない人」のことを言います。

「貧乏・貧困」という言葉には、「ネガティブなイメージ」が付きまといますが、「始末屋さん」には、むしろ「高評価・ポジティブイメージ」がありますね。

その意味は、簡単に言うと「お金はあるけど無駄には使わない賢い人」を指しますね。

この言葉が最近使われなくなった理由は、コロちゃんの考えでは「お金がある人はエライ」との考え方が、その後に世の中に拡がったからだと思いますね。

かつては「始末屋さん(お金があっても無駄遣いしない人)」は、奥ゆかしい立派な人と思われていたのですが、その後は「お金をジャンジャン使う人」がみんなの憧れに変ってしまったのですよ。

いやー、「価値観」って変わるものですよね。
( ̄。 ̄;A)イヤー

特に1960年からはもう60年以上も経っていますから、随分変わったものだとコロちゃんは思いましたよ。

その「お金持ち万能思想(?)」が拡がったのは、時代的には1980年代の後半ごろからだと思います。「バブル経済期※」以降ですね。

(※バブル経済:1987~1990年)

まあ、コロちゃんと姉さんの「祖母」はとっくの昔に亡くなっていますから、彼女の評価が「始末屋さん」か「貧乏性」なのかは今ではどうでもよい事です。

しかし、姉さんと久しぶりに昔話を楽しんだコロちゃんは、今とても機嫌が良いのですよ。

さて、コロちゃんと姉の「現在の話し」はこれぐらいにしまして、昨日に引き続き「少年Kの1960年代:ある朝の風景」にタイムスリップしてみましょう。

3.「少年Kのある朝の風景」

1960年代に少年時代をおくった少年Kですが、その当時はどこにでもいたごく普通の少年でした。

この「どこにでもいた少年」という言葉は、文字通り「どこにでもいた」のです。

何しろ、同年代の子どもの数は、なんと「186万人(男95万人、女91万人)※」もいたのです。

(※e-Stat 統計で見る日本:人口動態調査 人口動態統計 確定数:出生より:1万人以下切り捨て)

昨年2023年の出生数が「77万人」しかないことを考えると、少年Kの同級生は昨年生まれた赤ん坊の数の「2倍以上」となります。

「団塊の世代(1947~1949年生まれ)の合計806万人(平均年268万人)」よりは減ったとはいえ、少年Kの周りに大勢の子どもたちがワラワラといる時代だったのです。

そんな「子どもがいる風景」が当たり前の時代の、ある朝少年Kの家の様子を見てみましょう。

4.「コケコッコー!とニワトリが鳴く」

ある朝のことです。少年Kが眼を覚ますと、隣のへやから「カチャカチャ」と小さな金属をぶつけ合うような音が聞こえてきます。

隣の部屋の1角で寝ていた、少年Kの「高祖母※」の「おばんちゃん」が、朝のお掃除をしているのです。

(※高祖母:祖母の母親)

「おばんちゃん」は、毎朝「自分用の箪笥」をぞうきんで拭き掃除をしていました。その「箪笥の金属製の取っ手」が、拭き掃除をする都度に揺れて「カチャカチャ」と音がするのです。

この「おばんちゃん」は、物静かな女性でいつも静かに座っていたことを、少年Kは覚えていますね。

少年Kは、急いで着替えると「おばんちゃん」に「おはよー!」と声をかけると、そのまま外に向かいます。

少年Kの家では、当時「裏庭の片隅にニワトリ小屋」があったのです。この「ニワトリ」が産んだ卵を、毎朝取りに行くのが少年Kの朝の日課だったのですよ。

「ニワトリ小屋」の広さは、3畳間ぐらいだったような? 「ニワトリ」は、3~4羽ぐらいいたかな?

もちろん「ニワトリ」はゲージになんかに入っていません。自由に歩き回れる「平飼い」ですね。

その屋根が片流れの小さな小屋に、少年Kが腰をかがめて入っていくと、「クワ、クワ、コッコ、コッコ」とニワトリが騒ぎだします。

その鳴き声を少年Kが真似て「コッコ、コッコ」と口ずさみながら、ニワトリを追いながら「卵」を取り上げると、まだ暖かいんですよね。

「卵」は毎日産んでいませんでしたが、少年Kと姉の「貴重なたんぱく源」となっていましたよ。

この「ニワトリの卵」ですが、当時の値段を調べて見ると「1960年で91円(10個)」とありました。これを当時と現在の「消費支出」を基に換算してみると「838円」となっています。

1960年の「鶏卵価格」を現在値に換算すると大体9倍程度になるようですね。ただこの比較は「卵」に限られていますね。

当時の「大卒初任給は1.3万円」で、今年2024年の「大卒初任給は22.6万円」ですから、こちらはだいたい17倍になります。

比較するモノによって、当時の値段と現在の値段の「倍率」が大きく異なっているのです。

しかし「卵10個パックで800円」となると、どこの「家庭」でもなかなか手軽には食べることが出来なかった時代だったようですね。

少年Kの家では、このニワトリのおかげで毎日ではないものの、卵にありつけたのですから「ニワトリ」に感謝ですよ。

そして卵を産まなくなったニワトリは、「肉屋さん」に持って行って「解体」してもらっていました。

「肉屋さん」では無料で解体して「肉だけ」を返していたようです。「肉屋さん」は、内臓や他の部分の利用で採算をとっていた模様ですね。

ただ、少年Kは肉屋さんからの帰り道には、もう「鶏肉のすき焼き」のことしか考えていませんでしたよ。

少年Kの家庭では、「ニワトリの解体後」には必ず「鶏肉のすき焼き」が夕食のメニューだったのです。

そうそう、1960年当時では「牛肉」を食べることはほとんどありませんでしたよ。「牛肉」は、庶民にはなかなか手が届ない「高級品※」だったのです。

(※1960年:鶏肉価格100g49円:牛肉価格100g61円)

5.「プーファーと納豆売りのおじちゃんが通る」

そして、少年Kが産んだばかりのまだ暖かい「ニワトリの卵」を持ち帰ると、朝食が始まります。

ちょうど、その時に「プーファー」とのラッパを吹く音が聞こえてきました。

いつもこのぐらいの時間帯に「納豆売りのおじちゃん」が自転車で、ラッパを吹きながら通るんですよ。

「おじちゃーん、納豆1個ちょうだい」by少年K

「プーファー、まいどあり―。おはようございます。いつもありがとうねー」by納豆売りのおじちゃん

売っている「納豆」は、その当時ではありふれた「藁苞(わらづと)納豆」でしたね。確か値段は10~20円だったような?
ʅ(。◔‸◔。)ʃ…ハテ?

本で読んだ戦後すぐの時代では「納豆売りの子ども」が大勢東京で働いていたそうですが、少年Kの住んでいた1960年代の田舎町では、「納豆売りはおじちゃん」でしたね。

当時の「納豆」の、お値段を調べて見ると大体20円ぐらい。大卒初任給で比較換算すると17倍ですから「納豆1個340円」とお高いです。

しかし当時は、今よりはるかに内容量が多く、数人で食べられる量でした。

この年の10年前の1950年の資料では、東京における「中学生の納豆売り」の資料がありましたね。

それには「一個 10円の納豆を親方から原価7円で仕入れ、一日 30 個売れれば大成功。もうけは 60 円程度だった」と厳しい生活の様子が描かれていました。

皆さんは「もはや戦後ではない」という言葉を聞いたことがありますか?

この言葉は、1956年の「経済白書※」の序文に書かれている「有名な言葉」です。戦後復興の終了を宣言した象徴的言葉として「流行語」にもなりました。

(※2001年に経済企画庁が省庁再編で内閣府の部局となり「経済財政白書」に名称が変更されています)

この年1956年に「日本経済」は、終戦から10年目にして初めて「GDP(国内総生産)」が戦前の水準を上回ったのです。

だからこの「もはや戦後ではない」という言葉が、当時の「国民の生活実感」として受けれられたのでしょうね。

少年Kの時代は、戦後の苦しい生活からやや上向いてきた1960年代です。朝食の「納豆」が普通のメニューとして毎朝のように食べていたように記憶していますね。

それで「納豆」がすっかり好きになった現在のコロちゃんは、未だに毎朝「朝食の納豆」を食べ続けていますよ。

6.「少年Kに飢えた記憶はありません」

上記のような朝を過ごした少年Kは、その後元気に学校へ行ったり、日曜日のお休みの日は近所の悪ガキどもと一緒に走り回ったりしましたね。

ただ、少年Kには「飢えた記憶」はありません。

「学校給食※」もキチンとありましたし、家では甘いお菓子でこそなかなか食べられませんでしたけれど、午後にお腹が減れば「祖母や母」が「味噌のお握り」をつくってくれましたね。

(※小学校給食の1959年度全国実施率は45%、1964年度全国実施率は84%:文部科学省:日本の学校給食はいつから実施されているの?より)

今調べて見ると「学校給食」は、上記のようにちょうど少年Kの時代だった1960年代になって急速に全国で実施され始めたのですね。

それらのおかげで少年Kは「飢えた記憶」は一切なく育ちました。その点は「祖母や母」には素直に感謝しなければなりませんね。

次に、その時代の「日本の食料事情」をちょっと覗いてみましょう。

7.「経済が成長すれば食肉量が増える」

少年Kが、毎朝卵を食べたくてニワトリ小屋に通っていた1960年代は、まだまだ「日本人の食肉量」は少ない水準でした。

この「1人当たりの食肉量」と「経済成長」は相関関係にあるのです。「経済が成長」すると、世界中のどの国でも「1人当たり食肉量」が増大するのです。

下記のグラフをご覧ください。内容は下に書き出します。

「農林水産省 1人当たり肉類消費量の推移」より

https://www.maff.go.jp/j/pr/annual/pdf/syoku_jijyou.pdf
出典:知ってる? 日本の食糧事情より(1月2日利用)

上記のグラフは、「農林水産省」が発表している1961~2011年の「1人当たり肉類消費量の推移」です。「日本(青色線)」と「中国(赤色線)」と「世界平均(緑色線)」の記載があります。

「日本(青線)グラフ」を見ると、少年Kの時代である1961年には「7㎏※」だった「1人当たり肉類消費量」が、その後上昇し続けて、2011年には「48㎏※」まで増えています。

(※小数点以下切り捨て)

この40年間で6.4倍になっていますね。

2000年代に「中国」に追い越されますが、お肉を食べ過ぎるとコルステロールの数値が悪化しますから、「中国」に追い越されてもコロちゃんは気にしませんよ。

実は現在のコロちゃんは、医者から「悪玉コルステロール値」が高くてお薬をもらって服用しているのです。

まあ、それはどうでもいい事なのですが、上記したように少年Kは、まだまだ「日本経済の規模」が小さい時代に生きていたのです。

このグラフを見れば、この当時の少年Kの家で飼育していた「ニワトリの価値(卵・肉)」が少しでも想像していただけるでしょうか。

1960年代の日本は、まだまだ「お肉と卵」をそんなに多く食べられる時代ではなかったのですよ。

8.「三つ子の魂百までだね」

上記で「経済成長と食肉消費量の関係」を見てきましたが、当時の少年Kはそんなことを知るはずもありません。

まだまだお菓子を食べたくて、ポケットに10円玉1個を忍ばせて「駄菓子屋」に通っていましたよ。

そしてこの少年Kがよくおやつ替わりに食べていた「味噌のお握り」は、今でもコロちゃんは大好きでなのです。

また、その嗜好はコロちゃんの「長男・次男」にも受け継がれているようなのですよ。

こういうのを「三つ子の魂百まで」というのでしょうか?

これは「源氏物語」が由来とされていることわざですが、「幼い時に身に付いたことは大人になっても変わらない」との意味だとされていますが、コロちゃんはあまり好きな言葉ではありません。

だって、なんか最初から「刷りこみ」がされているみたいじゃないですか。

ただコロちゃんも「味噌お握り」は大好きですから、「イヤだ」と言ってもあまり説得力がないのですけどね。

コロちゃんは、やはり「誇り高く自立」していたいですから、言葉では否定したいのですが、「味噌お握り」は美味しいのですよ。
(๑´ڡ`๑)ウマイ

まあ「人間なんてそんなものだ」と、居直ったところで、最後に「三つ子の魂百まで」の由来とされる源氏物語の一節を読んで、今日の少年Kの物語を締めますね。

「筆取る道と碁打つこととぞ、あやしう『魂』のほど見ゆるを、深き労なく見ゆるおれ者も、さるべきにて、書き打つたぐひも出来れど」

ウーム、わからん? なんやこれ?
( ̄へ ̄|||) ウーム

どうやらこの前半部分を現代語で翻訳すると「筆で書くことや碁を打つことは不思議なもので生まれ持ったものが見える」となる模様ですね。

「三つ子の魂百まで」なんて、言ってないじゃん!
\(・Д・||)オイオイ

老年コロちゃんは、まだまだ知識が足りないということで「今後も精進しますよ」と、最後はキレイにまとめましたよ。

コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。

このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします(^_^.)

おしまい。

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