明けましておめでとうございます。
現在コロちゃんのブログは、「年末年始考」として、以前に1度発表した「少年Kの1960年代」シリーズを「リライト」して再び発表しています。
今日は「シリーズの第3作」です。少年Kの当時の家族の様子をお伝えしますね。
現在では「個人情報」で「プライバシー」が問題となりますが、当時の「少年Kの家族」で現在も健在なのは「コロちゃんと姉」だけとなりましたから、もう遠慮しなくともいいですよね。
今日は、コロちゃんが家族で一番下の「味噌っかす」だった頃の「少年Kの1960年代➂:四世代家族」をカキコキしますね。
0.「今日の記事のポイント」
コロちゃん
今日の記事は、下記のような内容になっていますよ。どうぞ最後まで楽しみながらお読みください。
☆「年末年始は、少年Kの1960年代を投稿しますと、少年Kの家族の面々」
☆「多世代家族の長期推移と、おばんちゃんの故郷:蔵の町喜多方」
☆「権威主義的な祖母が中心の家族と、思春期Kの心の分水嶺」
☆「クリスマスプレゼントと岳温泉の記憶と、少年Kと図書館」
☆「少年Kの祖母の記憶」
1.「年末年始は、少年Kの1960年代を投稿します」
この「年末年始」はいつもの「社会派記事」ではなく、コロちゃんが少年時代だった1960年代の様子をお届けしています。
テーマは「少年Kの1960年代」です。
1960年代に少年時代をおくった少年Kは、元気いっぱいの少年でしたけれど、まだまだ「日本」は貧しい国でした。
都市部から始まった「高度成長日本」が、少年Kの住む地方都市にまで押し寄せてくるには、まだまだ時の流れが必要でしたね。
そして、そんな「経済」のことなど何も知らない少年Kは、貧しい家庭の中でも成長の日々を過ごしていましたね。
この当時のことは、コロちゃんにとっては、あまり思い出したくもない「暗い思い出」ばかりがあるのです。
だけどコロちゃんが齢(よわい)「こらいまれ」となるにつれて、この「少年時代の暗さ」があまり気にならなくなってきました。
今のコロちゃんは、60年以上の年が経過する中でやっと、「少年Kの世界」を冷静に見つめることが出来るようになったということなのでしょう。
このような「お話」が、このブログを読んで下さる読者の方々が興味を持たれるかどうかは分かりません。
だけど「日本の一つの時代」に「少年K」の様な子どもがいたことを知っていただくのも面白いかと今のコロちゃんは思いましたよ。
なお、【年末年始考】「少年Kシリーズ」をまだお読みになっていない方は、下記のリンクからお読みください。
このシリーズは、どこから読んでも楽しいようにはなっていますが、最初の①からお読みくださることをお勧めしますよ。
2.「少年コロちゃんの家族の面々」
少年Kは、東北地方の田舎町に生まれて育ち、1960年代に元気いっぱいの少年時代を過ごしました。
少年Kの家は、3つ年上の姉と母、それと祖母(おばあちゃん)とまたその母親(高祖母)の5人家族で父親は居ませんでした。
少年Kは、家族の中で一番下の「味噌っかす」だったのです。その分みんなから可愛がられていましたよ。
祖母の母親の「高祖母」という呼び名を皆さんご存じですか? コロちゃんは大分高齢になるまで知りませんでしたよ。
少年Kの家では彼女のことを「おばんちゃん」と読んでいましたね。
祖母は「おばあちゃん」で高祖母が「おばんちゃん」と、他には「母と姉」の女性たちばかりの家族で、男の子は少年K一人でした。
5人家族で「4世代家族」でしたが、少年Kの周囲のご近所さんでは、大家族は珍しくなく「3世代家族」はいたるところに居たように記憶していますね。
この1960年代という時代の「日本」では、まだまだ「3世代家族」は普通に存在していたのです。
その家で生まれ育った少年Kには、その4人家族4世代家族が「当たり前のデフォルト」と思っていましたよ。
3.「多世代家族の長期推移」
ここで、ちょっと「日本」の家族構成が戦後から現在に至るまで、大きく変貌したことを見てみましょう。
以下の表をご覧ください。内容は下に書き出します。
「内閣府参考資料 世帯分野の多様化・分散化」より
https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2004/pdf/160622sankou_01.pdf
(出典:内閣府参考資料:各分野テーマの概要:世帯分類の多様化・分散化より:12月31日利用)
上記の表は「内閣府参考資料」の「世帯類型」です。「三世代家族の割合」を下に書き出しますね。
◎「三世代家族割合」(少数点以下切り捨て)
➀「1955年:37%」
➁「1965年:29%」
➂「1975年:21%」
④「1985年:19%」
⑤「2000年:14%」
⑥「2020年:11%」
https://www.cao.go.jp/zei-cho/history/1996-2009/etc/2004/pdf/160622sankou_01.pdf
(出典:内閣府参考資料:各分野テーマの概要:世帯分類の多様化・分散化より:12月31日利用)
上記のデータを見ると、1960年代の「三世代以上家族」はだいたい30%前後でした。それが60年後の2020年には11%まで1/3にまで減少しています。
少年Kの家の「四世代家族(三世代以上家族)」は、1960年代でも「3世帯に1世帯」程度で、その後現在まで減り続けて、現在では総世帯の「10世帯に1世帯」程度にまで減少していると思われますね。
4.「おばんちゃんの故郷:蔵の町喜多方」
少年Kと同居していた「高祖母」の「おばんちゃん」でしたが、当時はたぶん80代後半だったのでしょう。
この「おばんちゃん」は、少年Kから見れば「祖母」の母親だったのですが、生まれ故郷は「喜多方市」だったらしいです。
今のコロちゃんの記憶には、幼い頃にこの「おばんちゃんの喜多方の本家」を訪ねた記憶が残っているのです。
今となっては、少年Kたちがどういう理由でどこを訪ねたのかも全くわからなくなっていますが、その家は敷地内に大きな蔵が何棟も建っている大農家でしたね。
そして家の台所を見てビックリ、家の台所の中に川を引き込んでいるのです。このようなつくりを始めてみた少年Kは、その衝撃で未だに記憶が残ったのでしょう。
そこでの会話の「○○の女主人はお小遣いにこの蔵1棟を自由に使っていた」というお話を覚えていますが、あれは誰と誰との会話だったのでしょうね?
濃い霧が流れているようなぼんやりした、少年Kの幼い頃の記憶ですね。
一体少年Kは、誰と何をしににこの「蔵の町・喜多方」を訪問していたのか、今となってはすべて霧の中です。
「蔵の町・喜多方」は現在でも有名ですが、もう一つの「観光資源」である「ラーメンの町・喜多方」は、コロちゃんが調べたところ、ずっと後につくられたそうです。
1982年ごろ、喜多方市の商工観光課が、団体客のための昼食場所としてラーメン店に目を付けて拡げたとありますね。
少年Kが、「高祖母・おばんちゃん」と一緒に「喜多方市」を訪れたのは、おそらく1960年以前となると思われますから、喜多方市にはまだラーメン店はほとんどなかった時代だと思います。
5.「権威主義的な祖母が中心の家族」
少年Kの家族は、祖母が中心にデンと座っていた家族でした。男は少年K1人ですから、誰かが家族の中心にならなければなりません。
家族の収入は、祖母の「和裁の仕立て」と、所有していた「不動産・貸家」の「地代・家賃収入」があり、母も病院に勤務していましたね。
そして、その祖母の母親である「高祖母・おばんちゃん」が居ましたが、おとなしい女性でしたね。
腰が「くの字」どころか「つの字」に大きく曲がっていて、やっと歩いていたことを憶えていますね。
この「おばんちゃん」は、少年Kが小学校低学年の頃ですから、この1960年代の初めごろに90歳以上まで生きて亡くなりました。
家族の中心である「祖母」は、明治生まれの気の強い女性で、自分に従わない相手は絶対に許容しない方だったのです。
当然にして母との関係も悪く、少年Kと姉は、そのいさかいの間で縮こまっていたことを思い出します。
その後少年Kは、成長する中で幾度となくこの「祖母」とぶつかり、家を出て独立することになるのです。
6.「思春期の少年Kの心の分水嶺」
この後の少年Kの思春期の時代のことでしたが、少年Kが当時通っていた進学校の高校生活で、少年Kが学校側とトラブルを起こしたことがありました。
当時の少年Kは「硬派」でしたから、学校側との対立で譲りたくなかったのですが、その連絡を受けた祖母が少年Kに担任教師へ「お詫びのお菓子」をもっていけと命令したのです。
今思っても「社会的問題」を「教師と生徒の個人的関係」にすり替えるようなやり方としか思えない酷い措置だと思いますよ。
しかし少年Kは、それでもこの時は祖母に譲歩してその「お詫びのお菓子」を担任教師へ持っていったのですよ。
だって、少年Kの生活費や学費も、全てその「祖母」に頼っていたのですからね。
この頃から少年Kは、既に「社会意識」が芽生え始めていました。この事件に少年Kの「自意識」は深く傷ついたのです。
この「エピソード」は、少年Kの「心の分水嶺」を越える出来事だったように思えますね。
その後のコロちゃんの価値観に、「権威主義を絶対に否定」することを教えてくれたのはこの「祖母」ですね。
このようなことを「反面教師※」と言うのでしょう。
(※反面教師:反省の材料となるような人や事例を指す:1957年中国:毛沢東演説が初出)
またこの祖母は「教育熱心」な志向を持っていて、少年Kが学校から帰ってくると、遊びに出る前に必ず祖母が作った「算数の問題」と「国語の漢字の書き取り」が終わらないと外出を許さないのです。
そのおかげか、少年Kは「学校の成績は良かった」のですが、少年Kはもっと自由に遊びたかったですね。
この祖母の長男(少年Kの伯父)は、当時大学の「教授」になっていました。
今から思うと、祖母は自分の子どもたちへの教育方針の「成功体験」があり、「大学の教授」である長男を誇りに思ってたのでしょう。
しかし少年Kは、おとなしくその祖母に従う「従順性」は持っていなかったようでしたね。
「祖母」が誇りに思っていただろう「伯父の歩いた道」を、少年Kはおとなしく続いて歩くことを拒否したのですよ。
(もっとも、少年Kが従順だったとしても「大学教授」にはなれなかったでしょうね)
7.「クリスマスプレゼントと岳温泉の記憶」
その後、少年Kと激しくぶつかることとなる少年Kの「祖母」は、決して少年Kが可愛くなかったわけではありません。
少年Kの記憶には、以下のような記憶も残っているのです。
幼い頃に小学校から帰ってきたら、「祖母」が後ろの戸棚のなかから「クリスマスのプレゼントだよ」といって、「キャラメル+チョコレート」を取り出したことを憶えていますね。
その時に少年Kが、凄く嬉しかったこともしっかりと覚えているのです。
現在のように、子どもには毎年何回もプレゼントが与えられる時代ではありません。それに少年Kの家は、当時でも貧しかったのでしょう。
(後日姉から『うちはそんなに貧しくなかったわよ』と教えられました)
少年Kが普段口にできる「お菓子」は、いつも通っていた「駄菓子屋」の5円か10円のお菓子です。
その駄菓子屋のチョコレート菓子は20円。その値段では、なかなか少年Kの口には入りません。
それが、祖母の「クリスマスプレゼント」は、駄菓子屋のチョコレートではなく、更に美味しい1流メーカーのキャラメルとチョコレートです。
少年Kが飛び上がって喜んだのも無理はありませんでしたね。
また、この記憶も幼い時の者だと思いますが、少年Kと祖母とで毎年1年に1回「岳温泉」に行っていたのです。
「岳温泉」とは、福島県にある名の知られた温泉です。
その「温泉旅行」に、母は同行しなかったような・・・? 姉は居たのかどうか・・・?
ただ記憶は、この温泉街の坂道の中央にすごい勢いで流れる川(水路?)があったのを憶えていますね。
そして、祖母が必ず「赤貝の缶詰」を持参して、温泉宿の食事の時に缶を開けて食べていた記憶があります。
おそらく、宿泊した自室での夕食の時だと思います。
缶詰めをカキカキと「缶切り」を使って「祖母」が開けて、少年Kに分けてくれた光景だけが、今のコロちゃんの脳裏に残っていますね。
不思議なことに、少年Kにはこの「赤貝の缶詰」を自宅で食べた記憶が一切ないのです。
今のコロちゃんが忘れてしまっているのか、それとも「赤貝の缶詰」は「祖母」にとっての「特別な時に食べるハレの食品」だったのか、今ではすべて深い霧の中の出来事ですね。
コロちゃんは、その記憶のせいか未だに「貝の缶詰」が大好物なのです。
このような記憶を辿っていますと、少年Kは決して「祖母」がキライではなかったのです。それは「祖母」も同じだったのでしょう。
ただ「人生観・価値観」が、その後少年Kが思春期を迎えた時に大きく分かれたのだと、今ではわかりますが、当時はお互いに相手を許せなくなったのでしょうね。
8.「少年Kと図書館」
少年Kの住んでいた家から、歩いて10分程度のところに「図書館」がありました。
貧乏家庭で、なかなか周囲に溶け込むのがにがてだった少年Kにとって、「図書館」は憩いのオアシスでした。
少年Kの家には、誰が購入したものなのか知りませんが、姉の「少年少女文学全集※」が本棚1つに全巻そろっていたのです。
(※少年少女文学全集:1959年発行:講談社:全50巻)
少年Kの「読書習慣」への入り口は、この姉の「少年少女文学全集」でした。
少年Kは、この本の世界に入り込むことで、家庭内の暗い雰囲気や、貧しさの辛さなどから離れて、はるか広い世界に想像の翼を拡げて羽ばたくことを憶えたのです。
そして、今でもコロちゃんは「図書館通い」を止められないで、多くの本の世界に魅了されています。
面白い事に、コロちゃんよりも3歳年上の姉もまた「本の中毒」で、高齢になってから聞いたことですが、「枕元に読む本が10冊はないと、不安になる」と言っていましたよ。
幼かった姉と少年Kは、「家庭内の暗い雰囲気や、貧しさの辛さ」から身を守るすべを「読書」に求めて、それによって救われてきたのですよ。
そういう意味では、「少年Kと姉」は「人生という長い闘いを同じように戦い抜いた同志」とも言えると、今のコロちゃんは思っていますよ。
9.「少年Kの祖母の記憶」
今日の「コロちゃんの清貧ライフ」は、ちょっと趣向を変えて「1960年代の少年Kの風景」をカキコキしてみました。
今日の内容をふりかえって、今のコロちゃんは思うんですよね。
「祖母」は別に鬼でもないし、少年Kと姉を可愛くなかったわけでもないと思うのです。
しかし、明治生まれで、戦前の「家長制度※」がある時代を長く生きて来た祖母には「自分の家族支配は当たり前」という「価値観」があったのでしょう。
(※1898年の明治民法での家族制度:「家」を単位として戸籍を作り「戸主・家長」が絶対的支配をする制度:1947年廃止)
またそうやって「家族をまとめる」ことで、「厳しい生活」を生き抜くという「強い使命感・責任感」があったのだと思われます。
ただ、その「強権的支配」は、既に少年Kの時代には10年以上も前に廃止された「古い制度※」となっていましたね。
(※戦後の新民法施行:1947年:家・戸主の廃止)
しかし「祖母」には、そのような法律の変更や時代の流れは、気が付かなかったのか、それとも受け入れられなかったものだったのでしょうね。
今思えば、「祖母」は古い「日本の制度に縛られていた可哀そうな女性」だったのかも知れませんね。
しかし、その「家長の強権的支配体制」と田舎町の「親族共同体」が絡み合うと、その被害は家庭内弱者である「少年Kと姉」に向かいます。
ああ「母」もまた被害者の一人でしたね。
その結果、少年Kは独立して家を出て、姉は結婚して家を出ることとなったのです。
だから現在のコロちゃんは、何よりも「自由・自立・独立」を尊重します。
コロちゃんの長男・次男も、家から巣立ったからには「自由」にその人生を歩んでもらいたいと思いますよ。
少年Kが、「不遇な少年時代」に何よりも目指したものは「限りなく自由な生き方」でした。
そして「自由・独立・自立」した時から50年以上経過した今振り返っても、少年Kがその後歩んだ人生は、なかなか悪くない人生だったと思っていますよ。
さて、今日で「少年Kの1960年代」を3話お届けしました。興味を引きましたでしょうか。それとも「老爺の繰り言」でつまらなかったでしょうか。
この「少年Kの1960年代」は、あと3話投稿しますね。それが終わったら、今後もいろいろと趣向を拡げて、皆さんのご興味に答えていきたいと考えていますよ。
またこのブログ「コロちゃんの清貧ライフ」をぜひご訪問ください。
コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。
このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします(^_^.)
おしまい。
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