0.「今日の記事のポイント」

コロちゃん
今日の記事は、下記のような内容になっていますよ。どうぞ最後まで楽しみながらお読みください。
①「決して威張れる人生ではなかったと思っているコロちゃんだけど・・・」
②「一つの時代に目指すものは一つだったよ」
③「存在を賭して活動する覚悟の生き方だったよ」
④「価値をお金に置かないコロちゃんですよ」
⑤「生き方は、常に上から目線がいいよね」
⑥「ピンボールのような人生でしたよ」

1.「決して威張れる人生ではなかったと思っているコロちゃんだけど・・・」
いつものコロちゃんは「日経新聞の記事」を読みながら、気になった「社会のデータや事件など」を取り上げてブログをカキコキしています。
しかし、つい先日にこのブログの「編集長&株主様」である「次男一家家長様」から、以下のような指示が出たのです。
「コロちゃん、たまには日経新聞のネタではなく『人生観』でも書いてみなよ」by編集長&株主様
うーむ、コロちゃんはもう「70歳を過ぎたおじいちゃん」ですから、それなりの「長い時間」を生きてきていますよ。
( ̄へ ̄|||) ウーム
だけど「地位・名誉・金」のどれも得ることはできなかったどころか、それらを目指すこともしませんでしたね。
だから、その結果の現在が「清貧ライフ」なのも当然のことなのですが、「決して威張れる人生」ではありませんでしたけれど、まあ「そこそこの生き方だった」と自分では考えていますね。
今日は、ちょっと「恥ずかしながらのコロちゃんの人生観」を書いてみますね。

2.「一つの時代に目指すものは一つだったよ」
コロちゃんは、「母子家庭」の出身でしたから「経済的」には決して豊かなものではありませんでした。
さらにコロちゃんは、1970年代前半に「身一つ」で東京に出てきましたので、「ゼロからの出発」をしましたね。
その中で培われたコロちゃんの生き方は、今から振り返ってみれば「一つの時代に目指すものは一つ」と、目標を絞って集中していましたよ。
◎「コロちゃんの年代別の目指した活動」
①「20代:サークル活動」
②「30代:子育て」
③「40代:ボーイスカウト活動(ボランティア)」
④「50代:仕事熱中で子どもの教育費稼ぎ」
⑤「60代:がんとの闘い」
⑥「70代:ブログ投稿」
ざっと上記が「コロちゃんが熱中した活動」でしたが、この「活動の集中度」が半端じゃなかったのですよね。
まずは「一つの時代に目指すものは一つ」の集中度です。
どの時代のコロちゃんも「所得」がさほど高いわけではありませんし、「資産」があるわけでもない。さらにコロちゃんの「能力・知力・学歴」も見違えるほど優れているわけではありません。
このような人生で生きていくのに必要な「所得・資産・能力・知力・学歴など」を、コロちゃんはまとめて「アセット(自分が持っている資源)」と呼んでいました。
コロちゃんの人生は、その全部にわたって「限られたアセット(自分が持っている資源)」で生き抜いていたのですよね。
ここで現在の「親ガチャ」と比べますと、当時のコロちゃんは「限られたアセット(自分が持っている資源)」は「所与のものだ(※)」と当然視していましたね。
(※あらかじめ与えられているもの)
この「親ガチャ」と「所与のもの」の違いは、前者の「親ガチャ」には「外れた」との「ネガティブなイメージ」が込められています。
しかし、後者の「所与のもの」には、「誰しもがすべてを持っているわけではない」との冷静な視線がありました。つまりこれには「ネガティブなイメージ」はなく「フラット」なのですよね。
この「フラットな視線」は、コロちゃんが考えるには「1950~1960年代には誰しもが持っていた」ように思えますよ。
つまり「時代の精神」だったというのが、今のコロちゃんの見方です。
そんな「限られたアセット(自分が持っている資源)」しか持たないコロちゃんですから、「集中」できるのは「一つの時代に目指すものは一つ」と割り切っていたのですよね。
この「限られたアセット(自分が持っている資源)」に、コロちゃんは「不満やコンプレックス」は全く感じていませんでした。
そんな「負の感情」よりも、その時点で「限られたアセット(自分が持っている資源)」をどのように集中すれば成果が上げられるのかの方が大切だったのです。

3.「存在を賭して活動する覚悟の生き方だったよ」
当時のコロちゃんは、自分の心の中で「存在を賭して活動する」と常に繰り返し唱えていました。
何しろ、その時点の「所得・資産・能力・知力・学歴などの限られたアセット(自分が持っている資源)」を全部投入するわけですからね。
その時には「余分な感情など」のノイズは切り捨てることにしていましたね。
たとえば「③40代のボーイスカウト活動(ボランティア)」などは、「自分のおこづかいでよその子どもの面倒を見る」とよく言われていましたね。
またコロちゃんは、「30代」の時に一時「新しい農業」をめざそうとした時期があったのですが、そこを断念した時には「200万円ほど」を投げ捨てて撤退しましたね。
コロちゃんの「黒歴史」ですよ。
ただこの「存在を賭して活動する」を胸に抱いて活動すると、どの場でもコロちゃんは「リーダーシップ」を握れるのですよね。
そりゃそうですよね。周囲の方たちのほとんどは、「趣味や興味」で活動に入ってくるのですから、「お金も時間もできるだけ投入していたコロちゃん」とは比較することができません。
それに、自分で言うのもなんですが「コロちゃんって小器用」なのですよ。
「70代」になってから、このブログを「毎日8000~9000字ほどの原稿」が書けるようになったことも見てお分かりになれるかと思いますけど、何をやっても「ある程度はできるようになる」のですよね。
その代わり伸びしろは「ある程度」ですよ。だから「優秀とまで言えないが小器用」というのがコロちゃんの「自己評価」ですよ。
もう1つ「存在を賭して活動する」のメリットは、「満足感・達成感」です。
ここまで「活動に没入する」と、その結果が「失敗に終わっても力を尽くしたとの満足感」が得られました。
また、もし「成功」すれば、その心もちは「富士山に登頂した」ような大きなものになりましたね。
今振り返ってみると、当時「存在を賭して活動するコロちゃん」は、周囲からも「緊張感を漂わせながら活動に没入する姿」が見られていたと思いますね。
今の言葉で言えば、「マジ(本気)!」だったのですよね。
つまり周囲から見ても「輝いていた」と見えたのではないでしょうか。もちろん当時のコロちゃんは「楽しさマシマシ」でしたよ。

4.「価値をお金に置かないコロちゃんですよ」
皆さん「金融リテラシー」という言葉をご存じですよね。
この「金融リテラシー」とは、「お金や金融について必要な知識を持ち、それをもとに自分で判断して行動する力」のことです。
今では誰でも知っているような「金融リテラシー」という言葉が、世の中に広がったのはさほど昔からではありません。
コロちゃんの実感としては、「金融リテラシー」という言葉が一般の人たちの間でも広く知られるようになったのは、2010年代以降だったように思います。
ただし、これはコロちゃん個人の実感です。実際には、金融庁などでは2010年代以前から「金融リテラシー」という言葉が使われていました。
もちろん、この「金融リテラシー」という言葉が広く知られなかったからと言って「お金や金融・経済に関する知識を持ち、自ら適切に判断して行動する能力」という考え方がなかったという意味ではありません。
この言葉が「一般に広く知られていなかった」ということと、「その考え方が存在しなかった」ということは、もちろん別の話なのですよね。
コロちゃんは、「以前の日本」を知っている身として、この「2010年代以降」から「金融リテラシー」との言葉が広がった理由を考えましたよ。
コロちゃんには、それが「2000年代初頭頃」から、「日本社会でお金の価値が以前よりも強く意識されるようになったこと」の反映のようにも感じられるのです。
しかし、今のコロちゃん自身の中では、「お金よりも大切なものがあるとの価値観」がいまだにデンと座っているのですよね。
もちろん「ある程度の所得と資産がない」と、「生活苦と将来不安」に襲われますよね。
それでもコロちゃんの「人生の活動」の中では、「存在を賭ける以上は出せるお金はすべて投入する勢い」で生きていました。
そこでコロちゃんは考えるのですが、この「コロちゃんのお金の価値観」は、「1970年代に青年期を過ごした方たち」には、ある程度共通なものではないかとの思いですよね。
これも「時代の精神」ですよ。ただ「人間とは変わるもの」です。
だから、その方たちも「2000年代以降のお金をより強く意識する社会の価値観」に洗われて染まってしまっているかも知れないと考えているコロちゃんでしたよ。

5.「生き方は、常に上から目線がいいよね」
さて限られた「アセット(自分が持っている資源)」で生きてきたコロちゃんは、これまでの人生は一貫として「社会の下積み」で生きてきましたよ。
これはコロちゃんの「所得・資産・能力・知力・学歴など」が限られている以上、「仕方ない」ことで「やむを得ない」ことですよね。
しかしコロちゃんは「誇り高い男」でしたから、まったく「ひけめ」は感じていませんでした。それは「コロちゃんの生き方は常に上から目線」だったのですよね。
ここでいう「上から目線」は、「他人を見下す」という意味ではありませんよ。「自分自身を卑下しない」という意味です。
例えば「会社で上司から叱られる」ことがあった時には、頭を下げて恐縮した顔をしながら、心の中では「コイツも平社員を嫌な思いしながら叱るのが仕事なんだから可哀想だな」と考えていたのです。
また「人間関係のトラブル」があった時には、言葉で謝りその場をおさめながら、「コロちゃんはコイツらと同じレベルまで降りてケンカするつもりはないよ」と心でつぶやいていたのですよね。
コロちゃんが、若い時から「本の虫」で「読書に耽溺」していたことも、この「上から目線」の背景かも知れませんよね。
だって当時のコロちゃんの周囲にいた人間で、「コロちゃんよりも本を読んでいる人間はいない」と思っていましたからね。
このようにコロちゃんは、「人間関係でムカムカした時」には、常に「上から目線」だったのですよね。つまり「誇り高いコロちゃん」でしたよ、お金はありませんでしたけどね。
そう言えば、コロちゃんが「長男・次男」が成長して自立・独立して家を出る前に、以下の言葉をかけたことがありましたよ。
「おとんは、目的さえ正しければ相手の足の裏を舐めても、土下座しても全然恥ずかしくないと考えているよ」by当時のコロちゃん
当時のコロちゃんは、「心の中に誇り高い意識さえ持って周囲の目は気にしないメンタルを持て」と、これから「社会へ踏み出す息子たち」に伝えたのですよね。
ただ、せっかく「自立・独立する息子たち」にカッコイイ言葉をかけたのに、次男は次の言葉を返したのですよ。
「ふーん、じゃあ舐めてみて(足を突き出す次男)」by次男
この会話で「暖かいコロちゃんの家庭の雰囲気」が、何となくわかるでしょうか。当時のコロちゃんちは、「親子の距離が非常に近い家族」だったと思っていますよ。
これも「コロちゃんの生き方」の一つでしたよ。

6.「ピンボールのような人生でしたよ」
コロちゃんは、今振り返って自分の人生を「ゲームセンター」にある「ピンボールマシン」のようなものだったなと考えていますよ。
現在の「日本の社会」では、「学歴」⇒「大手企業」⇒「高い所得の幸せな人生」とのレールを目指している家庭が多いように見受けられます。
しかし「コロちゃんの70有余年の人生」は、あっちぶつかり、こっちぶつかりで、どこに進むのかがわからない「予測できない人生」でしたよ。
ただ考えてみれば、そのような人生の方がいつも「新鮮な感動がある」とも言えるのですよね。何しろ「人生は筋書きのないドラマ」ですからね。
それに、ここまで書いてきたようにコロちゃんは「一つの時代に目指すものは一つ」で、しかもその時代の活動には常に「存在を賭すとの覚悟」で取り組んできました。
そこに残ったのは「成功・失敗」に関わらず「限りない満足感」でしたよ。お金は残りませんでしたけれどね。
今日は、少し恥ずかしかったですが「コロちゃんのピンボールのような人生観」を書いてみましたよ。貧しかったコロちゃんの生き方を笑いながらお読みいただければ嬉しいですよ。
コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。
このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします。
(^_^.)
おしまい。


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